Scribble at 2022-04-05 15:28:37 Last modified: 2022-04-12 17:54:40
They are driven by the same desire to understand nature and make a contribution to science as we are. They just weren’t lucky enough to get the required education early in life, and now they have a hard time figuring out where to even begin.
鴨さんが「間違ってる系」と呼んでるような素人の科学ファン、あるいは「孤高の思想家」とか「隠れた逸材」、あるいはドクター崩れの境遇なら指導教官に恵まれなかった「悲劇の天才」を自称する、平たく言えばネジが何本か外れた連中の話である。
英語では "crank" と言うが、相対性理論は間違ってるだの、不完全性定理は間違いだのと、中学生の自習ノートみたいなものを学術研究者にせっせと送り付けてみたり、あるいは学術誌のエディターへ掲載を求めてみたり、あるいは現在だと自分のサイトでご高説を公開してみたりする人々だ。大昔のように establishment としての学会や学術コミュニティが成立しておらず、殆ど学術研究者の人間関係なり伝手だけで名声や評価が共有されていた時代なら、こうした連中とアカデミシャンを区別するのは難しかったと言える。しかし、現在は良い悪いを別にすれば〈権威〉として一定の条件を満たす研究者のコミュニティなり学会というものは法的にも人間関係としても、かなり明確な範囲を維持している。とは言え、自称するだけならいくらでもできるため、誰でも分子生物学者だとか哲学者だと名乗ることはできるし、お望みなら Facebook のプロフィールに記載したり名刺に印刷しても訴えられたり逮捕されたりはしない(軽蔑されたり冷笑される恐れは高いが)。ただし僕ですら、仕事の名刺に "chief philosophical officer" なんて恥ずかしくて印刷などできないね。とは言え、間違ってもらうと困るのは、それは哲学者であることが恥ずかしいからではない。そういうクズみたいな自虐ネタを、他人に有償で販売する印刷物にまで大学教員や哲学プロパーが書いている恥知らずな国家など、Japan くらいのものだ。
もちろん、哲学について言えば日本では事情がかなり特殊だとは言える。なぜなら、学術研究コミュニティを構成する大半のプロパーが自分で「哲学者」と名乗りたがらないという、やや奇妙な風習があるからだ。その代わりに、彼らは「哲学研究者」などと自称することがある。僕は、これは馬鹿げた風習だと思う。たぶん、多くのプロパーが「哲学者」を自称したがらないのは、この言葉が「哲人」という、僕に言わせれば更に馬鹿げた意味の言葉に近い印象を多くの一般人に与えると思い込んでいるからだろう。つまり、(東大出身ならなおさら)物知りとか、役に立たぬ蘊蓄屋とか、世間ずれした人間とか、あるいはカマトトと思われるのが嫌だというわけである。あるいは、「哲学者」と言えば何か独自の壮大な体系を与えるような偉大なる賢者であるかのように尊称したり肥大妄想にとりつかれている人間だと、反感を持たれるのが嫌だという動機もあるのだろう。
要するに、これらはすべて自意識の話にすぎない。素人にどう思われるのが「得策か」という社会人なり地域生活者としての処世術であればともかく、学術研究の場において自らがコミットした何事かに携わると自ら称することに臆するなどというのは、まったく馬鹿げた話であろう。それこそ、冷やかしで哲学をやってるのかとか、「試用期間」として20年ほど哲学科の教授をやってるんですかと言いたい。
さて、上記で引用してはみたものの、僕はこのような理解は楽観的すぎると思う。なぜなら、crank の大多数やイージーに学問なり思想を他人の面前で事程左様に語ろうとする者の多くは、要するに厳しい修練や勉強あるいは実験なり議論を積み重ねるという努力なしに、学者と同じ権威を欲していると思われるからだ。よくいるでしょう。「教授」などと呼ばれてる音楽家とか、学位もないのに「博士」と呼ばれたい人たちとか。確かに、宇宙や生命を語るのにソルボンヌ大学やケムブリッジ大学の博士号が必要だなどと素面で言うのはバカだけだろう。自然科学の成果について、「科学哲学」などというキメラのような学問をやってる素人集団が、東大の博士号もなしに語るとは何事かというわけである(しかし、こういうことを言う者に限って自分がもっている素養や学位など明らかにしないものだ。当サイトの About で掲載してある "street fight" という文章を見ていただければお分かりだろう)。確かに、何の勉学も積み上げずに「お茶の間感覚」で EPR パラドクスやベルの定理を語られては、たまったものではないだろう。しかし、だからといって学ぶ機会を提供すればいいというのは、はっきり言って社会科学的な観点から言えば錯覚だと思う。それはちょうど、水に話しかけるバカやありとあらゆる陰謀論、あるいは類ネットのような素人集団からカルト教団に至るまで、そうした人々の多くは〈勉強せずに尊敬されたい〉という欲望や自意識でしか動いていないからだ。これは、僕の偏見だろうか。