Scribble at 2022-03-19 12:09:56 Last modified: 2022-03-19 12:39:07

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当サイトでは学者の評価は学術的な水準での「業績」だ「成果」だと書いていて(これは特に何か不当で間違ったことを言っているとはぜんぜん思わない)、しかもアメリカのプロパーが圧倒的に日本のプロパーよりも有能で圧倒的な業績を上げていると僕が信じ込んでいるかのように誤解されている節があるのだけれど、もちろんこんなことは一般論として言うべきことでもない。日本にも敬服に値する業績を出している人たちはたくさんいるし(もちろん僕は理由もなく竹尾ゼミに入ったわけではない)、みんながみんな高速道路の建設反対を叫ぶ素人文法学者だとか、Twitter に耽美系のアイコンを貼り付けるブ男だとか、クズみたいな通俗本をアベノミクスの輪転機みたいに続々と印刷していると思っているわけでもない。

いわゆる "canberra plan" に関連してリソースを調査していたときに、アメリカでも酷い事例を見つけたので紹介しておこう。それはそうと、ここで紹介する人物を Kent State University のサイトで調べたときも感じたのだが、アメリカの大学のウェブサイトは教職員を調べるのが非常に面倒くさい。Faculty のリストへ簡単にアクセスする方法がトップページに用意されていないからだ。たいてい "Academic resources" なんていう分かりにくいメニューからたどって行けたらマシな方であり、この Kent State University のように教職員の情報へアクセスする手順がぜんぜんわからない場合も多い。その傾向は、こう言っては気の毒だが、Kent State University のように「この人に教えてもらいたい」と思って学生が集まってくるようなレベルではない大学だと、更に酷く(と言うのが不適切なら、少なくとも「強く」)なる。

よく言われることだが、特にアメリカの大学では教員が大学というサービス組織のスタッフ〈にすぎない〉という意識が強いらしく、とりわけ州立大学のようなグレードだと現実に身に着けるノウハウとか学位という実質を重視しているため、教員は学術研究よりも学生の教育・指導に大半の職責を追う。極端に言えば、学生のウケが良ければ研究なんてしなくてもいいのだ。それゆえ、上記のように professor でも論文が3本しかないということがありえる。こういう professor ともなると「アカデミズム」の一員ではなくなるが、それでも多くの大学では問題がない。テレビ・ドラマの "The Big Bang Theory" で、CalTech の Ph.D をもつシェルドンが州立大学やコミュニティ・コレッヂを(プリンストン大学まで同じ扱いをするのは酷すぎると思うが)読書サークルかカルチャー・スクールの一種みたいに扱う場面が笑いを誘うのは、それが事実にそくして無邪気な人物が口にしてしまうネタだからであり(有能な人であれば、そう思ってしまうのも無理はないという点がどこかに共有されているからである)、事実に反する本当の差別だからではない。

余談だが、「ジャーナル・アカデミズム」などという表現をたまに見かけるが、これはれっきとした和製英語だ。なぜなら学術研究者の業績を評価する基準の一つとして paper の質とか量というものを採用するのは当たり前のことだからである。こんなものに「アカデミズム」うんぬんと言って文句を口にする人なんてアメリカにはいない。問題があるとすれば、それは単純に本数だけで判断するという、評価する側の見識であろう。それゆえ predator journals のようなものが生まれてしまい、上記の事例でお分かりのように Scientific Research Publishing なんていうイカサマ出版社の哲学雑誌("Open Journal of Philosophy" のこと)で公刊した論文が数少ない「業績」の一つになってしまうという愚かな事例がアメリカにもあるわけだ。ていうか、ほかの2本も学内の紀要とか ECWCA(たぶん中西部の Writing Center 協会)の会報とかだから、学術的な価値はない。簡単に言うと、学術研究の業績として評価すれば僕と(https://scholar.google.co.jp/citations?hl=en&user=vQ8C9rEAAAAJ)この professor は同等なのである。

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