Scribble at 2022-03-19 10:47:20 Last modified: unmodified

いわゆる "is-ought gap" を言い表すために「事実と当為」などという表現を使ったりするが、どうも的確とは思えない。なぜなら、まず「当為」という言葉を殆どの人は実生活で使わないし、学校でも教わらないから、大半の人は「当為」が何を意味するのか理解していないからだ。そこで、おそらくは英語からの直訳として「だ - べし関係」などと奇妙な表現を使う事例も過去にはあった。哲学では "Sein vs. Sollen" だの、他にもいくつかの事例はあるが、説明なしに理解することは難しい。

確かに、〈学術は素人に最適化するべきではない〉という僕自身もコミットしている方針ゆえに、あらゆる説明や記述を未熟な人間の語彙の範疇で成立させることが望ましいという前提は認められない。そもそも、そんな語彙は存在しないし、それこそ「あるべき」として想定したところで現実には無益であろう(そのセットは標準的な大学生を想定するのか、いや中学生、それとも未就学児童か)。したがって、誰でも分かるような表現を使うという場当たり的なサービスで「当為」という表現を置き換えようとすることは無益であろう。ただし、だからといって、そこから「当為」を的確に置き換えられる表現が存在しないという結論は出てこない。僕自身が的確とは思えないという予感なり直感をもっているので、なおさら何か他に良い(少なくとも「当為」よりは良いと思える)表現はないものかと思案することがある。

こう考えると、そもそも「事実」の方だって必ずしも的確とは限らないし、「事実」という言葉を使うマスコミの脈絡だとか、僕自身が使うときの動機なり事情を考慮すると、他の人にとってもそれぞれの脈絡や事情によって理解が異なる可能性もあろうと予想がつく。

このような状況で、これまでに学術研究者が採用してきた一つの選択は、言い表そうとする事柄をそもそも翻訳せずに "is-ought" とか "Sein-Sollen" などと英語やドイツ語で書き下し、早い話がひとまとめにして異化を利用することだった。つまり、日本語として表現するからこそ、的確であろうとなかろうと生半可にでも〈通じてしまう〉というリスクがあるのだから、表現をひとまとめに用語として意識させたり、あるいは少なくとも取り扱いに注意を要する何かとして〈認知的にたじろがせる〉ことで迂闊な理解を避けられるというわけだろう。そして、その表現が意味するところを正確かつ丁寧に(やれるものなら、だが)説明していけばいいというわけである。

とは言え、「(やれるものなら、だが)」と冷やかし程度に書いたが、現実には哲学の教科書などでは説明しない場合も多い(それが〈良いこと〉、あるいは〈そうすべきこと〉かは自明ではない)。自分で辞典などを使って調べる「べき」だと考える教員もいよう(ここでは、廣松某のように自覚があるのかないのか不明な〈造語オタク〉の奇妙な用法は考慮しない。彼の文章はオンラインでも見かける哲学オタクの未熟な文章によくある自分勝手な造語や言い回しと同じく、ぼくだけのたいせつなクオリアを特定の文字表現で〈固定〉どころか他人に伝達できるという、きわめて愚かで未熟な言語の理解によるものだとしか思えない。場合によっては、誰かエピゴーネンが登場してカントやプラトンの著作に対するのと同じような古典解釈でもやって博士論文を山ほど書いてくれると想像でもしている自意識プレイの厨二病なのかとすら考えうる)。

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