Scribble at 2022-03-16 08:38:02 Last modified: 2022-03-17 12:00:47

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… is there available in our ordinary experience an icon of what Socrates means by the “vision” or “prophecy” of the good? I believe that there is—the good man. A good man, as we observe him within our daily lives, is not “useful for…” in the same sense that tools, food, acts, even just and beautiful things exhibit utility. Entirely apart from the happiness which may justly accrue to the good man because of his consciousness that he is good, there is a certain fulfillment, completion or perfection which shines forth from such a man, and which we too admire, even perhaps without envy or desire, because of its splendor.

In Memoriam: Stanley H. Rosen, 1929-2014

僕の蔵書に "The Limits of Analysis" (Yale University Press, 1980) があるスタンリー・ローゼンについては、彼の業績や生涯を記念するサイトがあるようだ。でも、誰の管理してるサイトなのか分からない。ウェブでは見つからない可能性が高い大昔の写真が掲載されているし、2本の論説を著作権者から許可までもらって掲載しているので、家族なのかもしれない。あるいは古い写真を遺族から提供してもらい、サイトの公開も承諾してもらった元学生とか信奉者であってもいいが、ひとまずご紹介しておこう。

スタンリーのような人物は(科学哲学者でないのは自明だと思うが)、教科書的な意味で言う「分析哲学者」でも「プラグマティスト」でもないだろう。そして、えてして学部の頃に「現代英米哲学」などといった雑な名称のテキストとかアンソロジーを読んだ学生に限って、こういう人々がアメリカでは著しくマイナーだと、たいして根拠もなく思い込むことになる。しかし、果たしてそうだろうか。

まずクリスチャンというアイデンティティを強くもつ哲学教員は、日本で想像しているよりもたくさんいる。なんといっても、いまだに半数近くの国民が自分自身を「被造物」だと信じているような国家である。それに応じた教育機関や学会や出版社も多いし、マスコミでも日本では殆どお目にかかれない「説教師」がたくさん番組をもっている。哲学プロパーをはじめとする国民への影響力は、かたや東アジアの辺境国家でイージーな心理カウンセリングや人生相談や素人哲学本の出版を繰り返している坊主とは比べ物にならないだろう。

これに加えて、僕はインターネット通信を利用し始めた頃(1999年頃)にニーチェをテーマに学んでいるという大学院生と哲学の掲示板でやりとりしていたことがあるのだが、大学の学科に在籍する教員の構成として「分析系」が占めている割合には強く制約されずに、いわゆる「大陸哲学」とかポストモダン思想などの著作をシラバスとは無関係に読んでいる学生も多かったという印象がある。敢えてこう言っておくが、そうした学生にとって、大学で履修させられる数理論理学とか言語分析とかクリシンの授業やゼミでやりとりされる議論は、まさに単位をとるための「ゲーム」でしかないという浅薄な印象を与えていたらしい。

ただ、こういうことを書いているからといって、どういう種類の哲学が優勢だとか、あるいは他の思潮もあって多様性がどうとか、イージーな「ジャーナリズム」や相対主義を語りたいわけではない。以前から書いていることだが、フッセルとフレーゲには類似・比較するべき点が多いというアイデアは、この20年くらいにかけて業績が積み上がってきている「分析哲学史」とか「科学哲学史」(比較思想史ではなく。残念ながら、比較思想史が比較という本来のタスクにおいてまともな業績を上げた事例は殆どない)の成果によって、かなり多くのプロパーにも共有されているだろう。そこからハイデガーとカルナップの対比に進む論考もいくつか出てきているほどだし、僕はさらにデリダと(サールではなく)クワインやデイヴィッドソンとの対比にまで進めてもいいとすら思っている。なぜなら、そもそも〈彼ら〉を「大陸系」とか「分析系」と区別する根拠など(歴史的・地理的・社会的・あるいは政治的・感情的にはともかく)哲学的にはなかったからだ。敢えて言えば、両者の対比や優劣について、僕に言わせれば致命的に下らないお喋りを繰り広げてきたことこそ、一つの大きな「疑似問題」だったわけである。正直、こういう観点をもっている僕にとっては、そうした思潮や学派などの流行とか担い手の分布といったトレンドやデモグラフィの話は、哲学というよりも(わが敬愛する)社会学のテーマではないのかという気がする。たとえば、どうしていまだにアメリカには黒人の科学哲学者がこうも少ないのかとか。(「所詮は」と言うつもりはないが)そういうのと同じである。

いまや科学哲学の教科書もフランス語の著作(Barberousse, Bonnay, and Cozic, 2011)から翻訳されている。また、Lakatos 賞をはじめとして科学哲学での功績を評価している場所でも、近年はヨーロッパの研究者が出した成果に対する授与が増えているのもご存じだろう。そして、所属としても行き来が更に増えているわけだし、既に研究者のジオグラフィーやデモグラフィーとして単純に「大陸」などと言っていても無意味であろう。また、それらの区別だけではなく、そもそも区別のしようがないアプローチや成果も、今後は色々と出てくるに違いない。確かに、そうした成果の多くは折衷的であり、大半の成果が米語で書かれているという点でなにほどか「アメリカ的」なバイアスがあるのは確かだし、何か次の大きなトレンドを用意するための過渡的な思潮であるかもしれないが、それは結果から見た歴史的な理解つまりは後知恵にすぎない。われわれは、少なくとも「分析系」だの「大陸系」だのという、実のところ殆ど哲学的な正当性などないラベルのことはいったん忘れて各自のテーマに取り組み、自分たちが信ずる観点やアプローチにコミットする他にない。

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