Scribble at 2022-03-14 09:28:36 Last modified: 2022-03-30 08:25:54

日本語の文章の誤りを指摘するのであれば日本語の文法に照らして批判すべきであり、本書に関して言えばバークリ批判はあくまでバークリの視点からその矛盾点を指摘するのが正しいやり方やり方である。

的外れな批判

そもそも、冨田氏の論説は日本語の文章を英語の文法で批評するようなことと同じだろうか。それこそ「的外れな批判」だと言わざるをえまい。

上記の引用は、冨田恭彦氏の『観念説の謎解き―ロックとバークリをめぐる誤読の論理』という著作について「坂本吉之」と称する素人が書いた批評である。少し当人の Amazon プロフィールを調べてみたが、レビューの殆どが罵詈雑言で埋め尽くされているので、要するに罵倒する目的でつまらない素人考えを開陳したものだろう。もちろん、当人が哲学科の学士か修士ていどの学位をもっていてもおかしくはないが(日本の水準だと、僕と同じ修士でもこのていどは無数にいる)、学位は他の社会的なラベルと同じく、凡人が他人をまさしく凡庸に評価するための単なるシグナリングの道具でしかない。

これまで僕が当サイトでローティのアイデアをもとに展開している議論をご存じであれば、上記のような批評は「歴史的再構成」だけが古典の読解の成果であり、その中に自己撞着があるかどうかだけを批評するべきであるという話になると予想できるだろう。こういう、未熟な〈本好き〉によくある思い込みは、それこそ古代から連綿と続いてきたエピゴーネンや〈写経哲学〉の信奉者が不問としてきた偏見であり、いまでも東アジアの文化的辺境国家(もちろん政治的にも経済的にも辺境なのだが)の大学では多くの教員が無自覚にフォローし続けている。或る種の強力な「ミーム」とも言えるだろう。かような見解が極端な歴史主義、あるいは singularian(一般 vs. 特殊とか type vs. token ではなく〈個別〉ということ)の古典解釈であるという自覚がないと、よく社会思想史のイージーな解釈、そして特定のイデオロギーや政治家や経済学者を救済したり弁解する屁理屈として、「そのときはそうするしかなかった」と免罪されてしまうわけである。

後世の者には、それがポストモダンの理屈として〈暴力〉であるとしても、先人の成果である著作物なり、そこから歴史的に再構成された〈思想〉(あるいはお望みなら「全体像」とかいう誇大妄想やお化けでもいいが)について、合理的に再構成して活用する権利がある。もちろん、歴史的再構成もしょせんは解釈する者によって成果が異なるので、複数の再構成がありうる。よって、それら複数の再構成どうしを比較したり組み合わせて古典の内容を救うという方針をもつ研究者も(それに哲学として何の価値があるのかはともかく)いよう。それから、合理的再構成も複数ありうるのはもちろん、古典なり先人の思想として何を再構成するかという取捨選択の問題すらあろう。したがって、どちらにしても誤読なり誤解は起きるわけだが、合理的再構成それ自体を「時代錯誤」だとか「歪曲」だと切り捨てたところで、古典の読解という研究、つまりは「神」ならぬ〈ぼくのだいすきなさいきょうのてつがくしゃ〉の御心や御本意への恐れ多き接近が哲学の目的なのか。しばしば古典の研究者は、先人の思想へ接近することが事象そのもへの接近に寄与するとか、深みへの手引きになるといった、目も当てられない論点先取を口にする。お好みのプラトンやデリダが事象そのものへ無自覚に背中を向けていないことを祈るばかりだ。もちろん、それが人生を賭けた一つのコミットメントであると豪語するなら、それはそれで潔いことだろう。通俗的な言い方では「人柱」というわけだ。

なんにせよ、もちろん先人をはじめとして他人の書いたものに学ぶことは大切だと思うが、敢えて科学哲学の研究者として言わせてもらえば、そろそろ洋書の読書感想文を哲学の議論だと思い込む自意識は捨てていただきたい。

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