Scribble at 2022-03-12 10:22:25 Last modified: 2022-03-12 10:30:35
「意識のハード・プロブレム」が疑似問題である、つまりこれを難問だと思い込むこと自体が錯覚であるという批評は、分析哲学の学生や意識について何かスピリチュアルな結論を求めている思想オタクには不愉快な印象を与えるらしい。
また、これに関連する他の話題として、論点の切り出し方としては興味深いものの、議論の内容とか議論の set-up については強い違和感を覚えるものがある。それは、これも分析哲学の学生には馴染み深い話題だが、トマス・ネイグルが非常によく知られた論文で示した "what is it like to be a bat?" という問いである。現在ではしばしば自意識過剰な若者や未熟な中年のモラトリアムを表現するかのように扱われて、あろうことか哲学のプロパーですら "what is it like to be a philosopher" などと言い出し始める始末なのだが、これも自然主義の科学哲学者からすれば強い意味で迷惑な疑似問題の一つと言える。
疑似問題についてのお喋りやお話が(疑似問題と分かっていて臨床研究のように扱うならともかく)哲学の研究なり考察であるかのように考えるのは、明らかに迷惑な錯覚であり論を俟たないのは自明だと思う。加えて、「強い意味で」迷惑だと言う理由は、これが "to be a ..." で指示される、コウモリだろうと哲学者だろうと参照される側の概念なり意味は不問のままに、どういうクオリアを主観的に感じたら自分がアニメの萌えキャラやウーパールーパーのように〈意識できるのか〉という、いわば手続き的な話に落ち込んでいるからである。もちろん、比較される側についての理解が未熟で不十分なのであるから、そんな暇潰しの妄想や思弁から有益な成果など出てくるわけがない。こんなくだらないレベルの論点先取が哲学の議論であるわけがなかろう。(必ずしもネイグル当人の議論がそうだと言っているわけではない。通俗的な解説の大半が、表面的にはネイグルの議論を解説する体裁をとりながらも、その手の論点先取に陥っているということだ。)