Scribble at 2022-03-12 09:36:57 Last modified: 2022-03-12 09:43:20
前提となる理解や知識は詳細・複雑・徹底していても、それを利用して展開する議論が単純で明解となることはありえる。議論を端折ったり、一定の背景知識を仮定した上で省略すれば、解釈するのに前提となるべき多くの理解や知識が必要であっても、それを弁えているという前提のプロパーどうしでやりとりする議論は滞りも誤解もなく成立すると期待される(本当にそうなのかはともかく)。
次に、前提となる理解や知識が(必ずしも未熟や無知に基づくとは限らず)簡単・部分的であっても、それを利用して展開された議論がどういうわけか酷く複雑でわかりにくくなることもある。典型的な例かどうかは分からないが、長編小説のような文学作品や絵画や音楽などは、作者の個人的な経験とか動機がどれほど分かりやすくて単純であっても、それを元にして壮大かつ複雑な作品が生み出されることはありえる(もちろん、芸術作品がどれもこれも〈そんなものだ〉と馬鹿にしているわけではない)。
すると、僕が普段から批判している「図式主義者(表象バランス主義者)」なら、簡単な the next logical step として、前提が複雑で議論も複雑なパターンとか、前提が単純で議論も単純なパターンを思いつき、マッキンゼーやガートナーの元肩書だけで駄本を書き散らす三流の経営コンサルみたいに座標を描いて何事かをプロットし始めるかもしれない。
しかし、ここまでの文章で僕はわざと「詳細」とか「簡単」といった表現を調整しながら使ってきたが、こういう指標は適格である保証などないし、それぞれが本当に座標系の向きみたいに〈正反対〉である論理的な根拠も弱い。しかし、それらがしかるべき用途にうまく使えるという仮説なり偏見にコミットしているという自覚がない図式主義者は、自分が(頭にも、それから自分たちが書く愚にもつかない通俗本にも)描いている図式に、逆に言えば学術的な水準で言っての信頼など置いてもいない。それゆえ、幾らでも開き直れるし、営業マンと同じく馬鹿だったフリをして幾らでも言い訳できるというわけだ。
僕は、この手の〈口先 falibilism〉とか〈方法論的営業マン口八丁〉とでも言える態度を、われわれ科学哲学者としての可謬主義から切り分けるための強い指標とか、場合によっては〈マーケティング〉を探している。愚劣な連中を相手にマスコミ・出版という同じステージで戦うには、同じ程度に愚劣なマーケティングを使う手もある。そして、われわれのようにビジネスなり広告・ブランディングの世界で仕事をしている人間には、そういう浅薄で不愉快な手法を躊躇なく使えるという取り柄もある。正直、僕のように電通案件として仕事をしてきた人間にとって、Oxford の連中がワインやジャズで分析哲学を語るといった高邁で洗練された手法でなくとも、日本の幼い読者向けにエロアニメや BTS で分析哲学を語ることなどたやすい話である。