Scribble at 2022-03-01 16:41:47 Last modified: 2022-03-01 16:45:27
既にこの20年くらいのあいだ、日本語で書かれた新刊の哲学書を買って読むことは非常に少なくなった。これは別に怠けているわけでもなければ知的な関心がなくなったわけでもなく、つまるところ自分がテーマにしている議論なり論点にかかわりのある書物なんて、そう出版されるものではないからだ。
確率や統計の哲学はいまでもテキストや翻訳書が出ているけれど、本当のところ確率とは何であるかという philosophy of mathematics のテーマについて参考になるような本は、気の毒だが全くない。DAG やベイズ主義といった大流行中のフレーズをまくしたてて、そこに科学哲学として絡んでいるといった風情しか見受けられないからだ。でも、翻訳されているのはブームと関係のない時期に成果となり出版された著作なので、たいていの(科学哲学の専門外の)読者にとっては期待外れであろう。そして、消費者をミスリードして売りつけるのでない限り、読者の期待に沿っていない商品を市場に送り出すのは出版業として愚行である。自費出版の製本・配本代行業ならともかく、出版物として残すことに価値があるという理由があったとしても、それはいまやウェブのような媒体で自由に多くの人々へ公表できるのだから、商品とする理由はない筈である。寧ろ、そのようなものまで商品として売りさばかなければいけないほどの経済的な事情があるということにこそ、問題があると考えるべきではないか。
また、直に自分のテーマと関わりがなくとも古典を読んで応用するというアイデアはよくあるが、読むべき古典にしたって、本当のところ何百冊もあるわけではない。たとえば岩波文庫の青帯だけを見ても(仮にここに収められたものが「古典」と目されているという前提があればの話として)、哲学の古典だと簡単には認め難い著作が(自分の専攻が科学哲学であるか古代ギリシア哲学であるかにかかわらず)半分くらいあるはずだ。バーリンとか、西田幾多郎の書簡集とか、いちいち文庫にしてもらってまで読むべきものなのだろうか。そして、古典だからといって無闇に渉猟したところで無益でもあろう。なんとなれば、古典が古典として評価され何百年も読み続けられているのは、まさしくどういうテーマや論点についても参考なるような知見を与えたり、反省のきっかけを与える、いわば汎用性があるからだ。そして、それこそが哲学という分野の古典としての力であり業績であるとも言えるはずである。そうであれば、何も岩波文庫の青帯を「征服」したといった自意識プレイあるいは自己欺瞞に身を投じなくとも、わずかな機会を利用して逆に限られた分量の著作を読み込むことによって、十分な成果に寄与する価値があると期待してもよいはずだ。正直、自宅に何万冊と所蔵して読破したと豪語してるような人々が、いったい国際的・歴史的な観点で言って何の実績を上げているのか、神戸大学の博士課程を中退した人間にも「かんたんにわかる」よう、教えてもらいたいものだね。
もちろん、それらが哲学の古典にかかわらず、広くさまざまな分野の知見であるというなら、それだけの分量の文献に目を通したくなるのもわかるし、そうしている事実には敬意を表したいが、それでいったいなんになるのかという点だけが、物書きや学者の決定的な価値である。本が何冊売れたかなんて、われわれ哲学者にとっては些事もいいところでしかない。言葉として語弊があるものの、人を殴り倒すほどの圧倒的な議論や内容こそが重要だ。