Scribble at 2022-03-01 15:53:51 Last modified: 2022-03-01 16:03:31
テキストの制作準備として下書きをメールに書いて、自分自身のアカウントに対して送信し、貯め込むという実務を採用している。これは MD でも紹介した tutanota.com という暗号化メールのサービスを利用していて、件名に「textbook」とだけ書いておけば、tutanota.com の「テキスト下書き」というフォルダへ分類されるようにしてある。さきほど手短にメモとして送ったのは、たとえば次のような文章だ。
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ものを考えるのに、「哲学的」などという典型的ないし特徴的な、何か特別な考え方などというものはない。考えるということは、認知プロセスとして有効な分類があるわけでもない(そこにあるとすれば、せいぜい生理学的ないし脳神経科学での正常と異常の区別くらいだろう)。また、哲学における思考を他と区別するのは、その内容やテーマでもない。これ見よがしに人生や愛について考えてみても、それが哲学と呼びうるような思考である保証などないのである。しばしば、「哲学的な思考」と称して、それを「根本的な問いを考えること」だと解説する場合もあろうが、たいていは自分の考えていることが他人の考えていることよりも根本的であり、そして根本的であることは良いことだという、愚劣なプロパガンダや自意識プレイにすぎない。よって、まったく同じことだが、哲学的な思考なるものを何か特別なことと思い込んで、「深い」だの「深遠」だのと自称する者に限って、実際のところ哲学として何の成果も上げていない、通俗本の物書きどもだったりするわけである。
そもそも substantive に哲学していると言えるような人々の多くは、自分が「哲学」をやっているとか、ましてや「哲学的な思考」をしているなどという自意識過剰な自覚はない。しょせん、自分のやることが「哲学である」ということを establishment であるかのように思い込むような少年少女を生み出しているのは、マスコミや出版業界、そして自分たち自身がそうした自意識プレイや自己欺瞞に落ち込んでいる無能な大学教員である。もちろんアマチュアの大半も同じであり、制度の外にいるからといって自由に思考したり他者の影響からまぬかれているとは限らない。それどころか、市井の思想オタクや哲学オタクなどの大半は、ただの〈情報処理業者〉でしかなく、身に着けた知識の分量とか細かさを比べあってヘゲモニーの争奪戦を繰り広げる恥知らずや外道である。したがって、科学哲学においても、われわれの学ぶべき人々が大学に籍を置いているかどうかなど殆ど考慮しなくていいし、そういう人物が自ら「科学哲学」という学科にコミットしている自覚があるかどうかも関係ないというスタンスをとらなくてはいけない。確かに、そうやってみても学ぶべき人々の多くは(英米の)大学に所属しているのは事実だが、それは〈それだけのこと〉でしかないと弁えるべきである。
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哲学あるいは科学哲学のテキストにこんな文章を書くなんて、おそらく奇妙なことだろう。でも、その奇妙さは自分たち自身がいかに既存の出版業界や大学内部で口にされている「話法」に毒されているか(そして、学部レベルていどの分析哲学の教養があるならお分かりだと思うが、そうした言語の運用に自らがどれほど思考を牽制されたり誘導されやすいか)という証拠かもしれないと思うくらいの社会科学的な素養が哲学のプロパーにも求められてよいと思う。少なくともクワイン流のホーリズムを支持するなら、〈科学哲学をやることの〉社会学とか文化人類学とか社会心理学とか認知言語学という観点くらいあってしかるべきだ。