Scribble at 2022-02-25 14:13:16 Last modified: unmodified

イージーな相対主義というか、たいていは「護身術」のようなレトリックだと思うが、色々なアプローチだとか「哲学」があるもので、どれが一概に良いの悪いのと比較することはできないと言われたりする。もちろん、恩師のお一人は「ノエシス光線」などと著書で揶揄していたし、大学院時代の先輩の中には「分析系なんかやって、何の意味があるの?」と言ってくる人がいたのも確かだ。しかし、なんにしても彼らの大半は目の前にある、つまり視野に入っている限りでの「哲学」については護身術を使ったり当てつけを口にしたりするが、そこでは明らかに無視されているものもある。

たとえば、三木清とか高橋里美といった人物の著作について、時間をかけて丹念に読んだり考察の糧にしようなどと本気で思っているプロパーは、専攻が科学哲学であれ現象学であれ中世哲学であれ、はっきり言って殆どいまい。仮に、寿命が500年に伸びたと仮定してすら、そのうちの10年を三木清の研究に没頭しようと思う人はいないだろう。ハイデガーの研究者であれば、寿命が500年になったらハイデガーの研究が500年できると思うのが自然だろうし、それがそもそも哲学の研究なのかどうかという問題はあるにせよ、僕はそれで構わないと思う。

僕が当サイトの "About" で、哲学に正常も異常もないと書いているのは、どういう哲学の学説なりアプローチなり先人についてであろうと、それらが何の根拠もなしに(口先の「やさしさ」だけで)同じように尊重されるだけの価値があると思っているからではない。そんな価値は人によって、そして当人が置かれている状況や脈絡によって、いくらでも変わる。したがって、当人ですら自分のコミットしている学説だとかアプローチの価値を一定の尺度で固定することなどできない。よって、これは事実の話として、人の能力の有限性という点から言っても、そういうものの価値を正確に評価したり固定することなどできないのである。そして、恐らく価値という概念それ自体も、ただのレトリックとして significant or worthy とお世辞を言うために「ある」とだけ言うならともかく、それ以外の場合には有る無しだけの単純な尺度で語っても有益ではないし、かといって具体的な尺度を持ち出すと固定できないはずだ。

その昔、40代以下の若手だと殆ど著作どころか名前すら知らない人もいると思うが、マイケル・ポラニーやメルロ=ポンティの影響を受けたという栗本慎一郎なる人物が、何人かの思想家や哲学者の「採点表」なるものを著書で公表していたことがあった。もちろん、そういうことを個人のパフォーマンスとか学界に対する牽制として公表する社会科学的ないし心理的な効用はあろうが、哲学的に言って無駄や無益の典型であることは言うまでもない。表と裏、陰と陽、そして表層と深層なるものをでっちあげて、著作物の字面だけでは読み取れない関連する脈絡から想像される事柄に過剰な価値を置くという、陰謀論や安物のルポライターによくある告発系の評価基準は、思想オタクや素人など、他人に代わりに何事かを考えてもらった結果を読了してなんぼという人々が、世界や物事を短絡的に切り取るには便利な大鉈だろう。しかし、そんなことが結局は無益であり、そして寿命がウルトラマンと同じくらいあろうと、人は何事かを考え抜くのに十分な時間や能力など持ち合わせていないという事実から出発するほかにないという見識もなしに哲学(言っておくが、「哲学書」と呼ばれる特定の本や、「哲学科」と呼ばれる特定の学科の話をしているわけではない)へかかわろうとするのは、結局のところ自意識か余興としか言いようがない。

よって、いま三木清に関心がないという人であっても、500年に延長された生涯のうちで10年くらいは熱意をもって調べたり彼の著作を読み込んだり、あるいはそういう経験を通じて熱心に或るテーマを考える時期があってもいいし、なくてもいい。そんなことに哲学としての必然性や「価値」や責任などない。ましてや、多くの人がバラバラに異なる学説やアプローチにコミットする「多様性」があったほうが良いと無根拠に言うこともまた、別の無責任な話であろう。

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