Scribble at 2022-02-21 10:57:30 Last modified: 2022-02-21 11:18:21
あいかわらず、いったい何周目のランニングをやってるのかと思うような印象しかないのだけれど、Twitter ではマッシモ・ピグリウッチが素人を相手に "hard-problem" の話を整理しなおしている。がんらい、この手の議論が "hard" であるのは、哲学として考察していることがらがなんであるのかを〈理解するのが難しい〉という点に理由があると考えるべきなのだ。まったく同じことが "why there is something rather than nothing" にも言える。これをビッグ・バンの原因だとか causal sets の妥当性といった set-up の話だと誤解する人が、実は哲学のプロパーにもいたりする(そういう人たちは、ハイデガーの「存在論的差異」を全く理解していないので、そもそも他人に哲学を講じる資格などない筈だが)。
自分の考えていることがなんなのかを(少なくとも考えている点について)クリアに理解できれば、hard-problem が疑似問題ないしカテゴリー・ミステイクや思考の混乱であることは明白だ。明白である理由を、もちろん明白に説明すればこうなる。物体には「硬さ」という指標が色々あって(「硬度」と書くと水の成分の話になるため、工学でも「硬さ」と呼ぶ)、だいたいは荷重試験で凹む量を測るものだという。一定の重さを加えて x mm の凹みが生じる場合に "0" などと決めて基準にする。ここで、或る指標での硬さの値が「2.968」だとしても、べつに〈この数値〉や〈この数字〉が「硬い」わけでもなんでもない。数字は硬くも柔らかくもないし、おいしいわけでも不味いわけでもない。しかし、どういうわけか脳の電気的な反応が「嬉しい」とか「キモい」と感じられなくてはいけないと思い込んでいる人々がいるらしく、そういう人々は〈この電気的反応〉こそが「キモい」のでなければ納得できないというのだ。それどころか、一部の人たちは〈この電気的反応〉が「キモい」という主観的な感覚を「引き起こすのはなぜか」とまで問うありさまである。分析哲学の(言っておくが、hard-problem なんて科学哲学のテーマでもなんでもない)知識がない人にとってみれば、なんでこんなバカ話を大学に入ってまで続ける人たちがいるのか、それこそが hard-problem であろう。
しかし、いまや世俗主義しか眼中にない風俗国家で哲学を教えたり哲学書を読みふけっている、こんなことを分析哲学の主要テーマであるかのように素人へ教えたりものを書いている連中の所業なり著作物を我が国から放擲することもまた、hard-problem と言うべきであろう。