Scribble at 2022-02-17 10:29:41 Last modified: 2022-02-17 10:35:53

しばしば東洋思想とか宗教を学んだ人の中に、われわれにとって西洋の「哲学」なんて必要なのかと問う人がいる。このような「われわれ」という呼称に何の正当性なり妥当性があるのか、僕にはよく分からないのだが、なんにしても思想とか学問とか、人が小さな頭で考えたり行動してきた成果というものには、何らかの地域だとか来歴だとか、果ては民族性なり遺伝的な要素なりという不可避的な偏りがあるらしい。したがって、そういう人の中によくある議論として、「日本人」には "object" とか "substance" といった言葉が使えても、それらの概念は分かりえないなどというものがある。

しかし、これが小学生にすら理解できる困った思い込みであることは明らかだ。なぜなら、こういう錯覚右翼というかセンチメンタル右翼、あるいは外国で差別されたか失望して帰国した人に多い敗北主義的右翼と言ってもいい人々の議論は、逆に「日本人」だの「アジア人」というだけで理解できる〈資格〉や〈素養〉や〈才能〉があるかのような、特定の概念(しかも西洋人には分かりえない概念)があると言っているに等しいからだ。そんなことは、「日本人」とやらの一人として、なおかつ、少なくとも国公立大学の博士課程にまで進んだ者の一人として責任をもって言わせていただくが、およそありえない。

ヒトと他の動物種を概念としても実際の生物個体や集団としても〈きれいに〉分けられるとは限らないように、「ヒト」と呼ばれている生物種のおおよその集団にあっても、〈きれいに〉集団を分割したり区別できる基準は多くないと考えるのが妥当だろう。日本人かそうでないか、あるいはアジア人かそうでないかを区別する議論の余地なき基準などない。そういう基準は、政治的に〈あってはいけない〉というだけではなく、そもそも可能な別の解釈がありえないという意味での厳格さにおいても、概念として成立しないのである。「東洋人」であるための必要にして十分な条件を知っているとか定式化できるなどと言う者がいれば、僕には単なるコミットメントなり試行として言明しているだけとしか思えない。それ以外に可能な解釈は、もちろん頭がおかしいという可能性がある。

僕の学生時代の師は誰一人として、老齢に達してから「禅とウィトゲンシュタイン」などという些事(はっきり言わせてもらうが、こういうテーマは哲学的に言って些事としか言いようがない)に取り組み始めるような暇潰しにコミットしなかったという一点で、さすがは僕が師事しただけのことはあると、逆に自負している。ジジイになってからおもむろに経典など読み始めたところで、どのみち何も成果を出せず納得もできずに死ぬのである。それを学部生くらいまでに分かっていて、はじめて哲学科で他人にものを教える資格があろうというものだ。

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