Scribble at 2022-01-27 08:36:09 Last modified: 2022-01-27 09:01:50
それにしても、まともかどうかはともかくとして、古典期の研究にかかわるという分野に絞っただけでも、これだけのオープン・アクセスなモノグラフ・シリーズ(その多くは2、3冊だけで終わっているようだが)が出ているのだから、国内外とでは相当な差がある。
こう言っては気の毒だが、どれほど Twitter などで、プライベートな飲みや学会の懇親会あるいは個人的なメールのやりとりで情報の共有だの「熟議」だのをやっていると弁解したところで、やはりどう考えても日本の哲学プロパーは、クールな IT の話題や刹那的としか言いようがないサブカルをネタに分析哲学の与太話を無垢な高校生などを相手に展開していようと、結局は昔ながらの〈山小屋引きこもりの隠者〉を「哲人」ロール・モデルとして錯覚している方々が多いのだろう。
簡単に言わせてもらえば、学術研究者としては恥を知るといいという話でもある。思想家としては別に構わないが、それなら(ちゃんとできるかどうかはともかく)教えることにも意欲をもつ者や、啓発について何らかのスキルなり知見を持つ者に大学教員や著述家の席を譲り渡すべきだ。学術研究者というものは、要するに業績が評価の基準である。クズみたいな通俗本をどれほど書いていようと、学問を 1mm も押し進めない者は認めないというのが、近代的な学術研究のコミュニティが維持している(擬制としての是非は議論してもいいが、ともかく)権威というものであり、そうした権威を拠り所としたトリクル・ダウンにコミットするしかない。もちろんジャンルや話題に応じて、それこそ馬鹿がお好きな「多様性」よろしく、複数の多元的な権威はあろう。しかしともかく、公の実績がない者に、どれほど私的な人間関係での評判があろうと権威は認めないというのが、とりわけ左翼の大好きな「民主社会」の筈である。
もはや、これを英語話者の数と日本語話者の数の比だとか、大学教員の数の比だとか、あるいは英米と日本での学術研究に投じられている公的な予算とかファンドの比だけで説明することはできない。日本の学術研究者は、明らかに無用な通俗本の出版合戦とか、オンラインでの無駄なアウトリーチや SNS などでのスタンドプレイに時間を費やしすぎて、まともな学術研究の成果を出していないと断定するべきであろう。