Scribble at 2022-01-28 16:48:39 Last modified: unmodified

数学の教科書や通俗本に顕著な傾向として、それらを書いている数学プロパーや数学教師のように、説明するべき事項を生徒や学生だった頃に苦もなく分かった人々に限って、「これなら『すぐに』分かる」という、まさに自分たちと同じ過去、つまりは自分たちが経てきた認知的なプロセスを追体験させられるかのような目標を無批判に設定して本を書いてしまう。自分たちと〈同じようにすぐ分かる〉ようになる説明方法がある(もしくは自分たちには分かっている)という、僕に言わせれば致命的な錯覚に陥ってものを書いているのではないか。

数学の教科書を書く人の大半は、僕のように雑誌の『大学への数学』を愛読するような高校生でありながらも数学の試験で赤点ばかりもらっていた生徒のような、数学の問題の解き方や定理を応用する仕方が分からない人が、あれやこれやの演習を繰り返し、それこそ高校を卒業した後でも何年か勉強を続けて苦労してやっと分かるようになるという経験がない。そういう経験なしに、数学者や数学教師のコミュニティへ直行したまま、周囲にそういう苦労をした人が殆どいない環境で学生なり学者として生活している人たちだ。ゆえに、そういう「分からなさ」という状況への想像力が欠落している。しばしば、塾や予備校のの講師だったとか言って、何かを経験したり分かってるかのような体裁でテキストや通俗本を書いている人々にしても、結局は予備校で「できる生徒」にしか教えた経験がなかったりするものだ。

違う話題になるが、僕が哲学について、たまに「ヤクザの事務所で教えてこい」と書くのは、別に露悪趣味でも暴論でもないし、哲学イベントに参加する思想オタクだけを相手にして啓発家なりサポーター気取りになっている腑抜けどもを批判する為にだけしてる議論でもない。

数学の話に戻して議論を続けると、たとえば「対数」は多くの生徒にとって非常に分かりにくい。「或る数の何乗が別の或る数になるのかの累乗」などという、回りくどい表現でしか定義できない、いかにも不自然で、こう言っては気の毒だが、高校生の頃は会計士や証券マンや統計家どもが嬉しがって作っただけの〈偽物数学〉のように思えたものだ(数学史を顧みると概念が導かれた歴史的な経緯だけで言えば、あながち間違ってはいない。でも、それが〈いけないこと〉であるかどうか自明ではないという理解にまでは至っていなかったわけである。実社会からの要請で生まれた数学の概念があって、何がいけないのか)。しかし、色々な経緯や別の数学の勉強などを経て、「何乗になるかがどうして問題になるのか」という不可解さは、実は対数関数よりも指数関数という計算が何をしていることになるのかを丁寧に理解することで、ようやく納得できるようになるということが分かる。すると、たとえば自然対数を使うことによって巨大な数のオーダーどうしの計算結果を簡単に推定できるとか、あるいは2を底とする二進対数を使うことで、コンピュータ上での演算だとか、あるいはブール代数での演算について使い勝手を工夫できるようになるという(龍孫江風に言えば)「ご利益」があるわけだ。

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