Scribble at 2022-01-16 15:33:04 Last modified: 2022-01-18 11:53:21

既にご承知の方も多いとは思うが、また圏論の本が出た。初等的な内容の本を次々と出版するブームのようなものが5年ほど前から、つまり日本の IT 業界の一部で関数型言語が(ほぼ何の理論的・ビジネス的な必然性もなく)ブームになったのに合わせて、続いていたわけであった。しかし、いま現在のアマゾンで数学のカテゴリーで「圏論」と検索しても出てこない本が多く、恐らく出版社にしてみれば、初版を売り切ったら終わりという算段なのかもしれない。

いずれにせよ、それまでは大型書店ですら、店頭に並んでいた圏論の本と言えば、丸善から出ているマックレーンの訳本くらいしかなかった。大熊正氏の教科書は長らく品切れで版元の槙書店が既にない。清水義夫氏の二冊のテキストは、数学のプロパーからは黙殺されていたし、そもそも哲学(論理学)の棚に置かれていた事例が多いため、IT の技術者どころか数学の学生すら手に取る可能性は低かっただろう。

そういうところに、なぜか Haskell や Erlang や Clojure といった関数型のパラダイムを採用した言語が話題となり、また従来のプログラミング言語においてもクロージャ(無名関数やラムダ関数と呼ばれる)が導入されていったためか、まず海外(つまりアメリカ)の IT 業界で話題が増え始め、それから IT においても知的密輸業者が多い、「日本」とか呼ばれている東アジアの辺境国家や文化僻地において、それらを引き写したり、メディアと呼ばれる雑なブログや報道サイトやソーシャル・ブックマークなどでも言及する人々が増えてゆき、「関数型のパラダイムを理解・習得するには圏論を学ぶ〈べき〉」などというマーケティングが、数学を理解していないというコンプレックスが強い IT ゼネコンのプログラマやコーダ(いわゆる人文・社会系の学卒が多い)のあいだに広まったりしていったわけである。また、理数系の出身者にも、これをいち早く習得して「ベキ論」へ参加しておくことがマウンティングに有利であるという、小賢しい算術が普及したようである。

何度か紹介したように、僕はかつて Google が一般ユーザ向けに提供していた Google Plus という SNS で "category theory" のコミュニティを運営していたことがある(もちろん殆どが海外のユーザだ)。必ずしも本意というわけではなく、前任者から委託されて運営していただけであり、僕自身は圏論について何か他人に語るべき素養があるわけでもない。しかし、特に何か強い規制を敷いていたわけでもなく、自由に話題を投稿したり議論できるようにしていたのだが、運営を担っていた3年くらいの間に、僕の記憶として残っている大きな話題や議論なんて一つもなかった。数学のプロパーはもちろんだが、IT のエンジニアにとっても、数学としての圏論を公の場で議論する必要なんてなかったのだ。

僕は、こういう経験もあって、それから圏論に限らずシステム開発にとって関係が深い離散数学そのものの普及が全く進んでいないし、大学や業界としても全く普及させる気がないという現状を理解している立場からも、こう言える。つまり、システム開発のエンジニアにとって数学は活用する価値のある知識だが、システム開発という仕事に(他人からお金をとれるレベルで)携わるための必須の要件ではない。加えて、システム開発の与件や要件を満たすという開発独自の目標やビジネス目標にとって、関数型のような特定のプログラミング・パラダイムを採用する必然性はない。それゆえ関数型言語を習得することがビジネスにおいて有利だとか、あるいはイノベーションにとって強力な手段になるといった主張は、はっきり言って戯言の類であり、そういうことを吹聴している人間はマーケティングという下心があって何らかの状況へ誘導しようとしているか、あるいはただの嘘つきである。

もう少し端的に言えば、少なくとも IT 業界の技術者に売れると見込んで圏論の本を続々と出版しているのであれば、それはコンピュータ・サイエンスやソフトウェア・エンジニアリングの観点から言って無駄であり、IT 業界において本質的でない無駄な作業を(必要な素養であるかのように)要求する不正行為である。

そういうわけで、数学のプロパーに何らかの事情があって圏論のテキストを色々な内容で提供するということなら問題ないが、これをプログラマに読ませようとしているなら、読むことに一定の意義があることは認めるにしても、一般論として言えば大きなお世話である。もうこれ以上、そういうスケベ根性だけで翻訳を出版したり、あるいはそもそも物事を誰かに説明したり書くという仕事について未熟な技術者や数学のプロパーに、教科書や通俗本を付け焼刃で書かせて出版するような真似はやめていただきたい。紙や電力の無駄だ。

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