Scribble at 2022-01-19 16:18:19 Last modified: unmodified

哲学のプロパーが哲学的な問いを扱うためだけに措定する「レベル」とか「観点」は、おおむねファン・フラッセンが『科学的世界像』で「自己目的化」と呼んだものに相当するだろう。彼は、あの著書では論理的経験主義のアプローチという枠内で議論されていた observational vs. theoretical terms の議論とか、D-N model of explantion の議論を指して「自己目的化」と評した。しかし、このような指摘は他の脈絡や事例でも同様に有効だろう。

たとえば、言語、なかんずく英語や日本語と呼ばれている特定の言語が「ある」という場合に、それが個々の話者である私たちの脳の記憶という生理的・電磁気的な状態だとか、書物やハードウェアに記録されている化学的な状態という意味を超えて、なにか客観的とか実在とか言われるような〈ありかた〉として「ある」というのは、これは多くの人々が思い込んでいることでもあろうが、これをまじめに議論するべきであるという正当な理由が〈脈絡の外から〉加えられない限り、これは「自己目的化」した概念だと言わざるをえまい。もちろん、凡人には自らの考えたり話す〈脈絡〉など自覚する理由も必要もないのだから、こういうことは哲学者が代わりに論証するべきであろう。だが、僕が知る限りで十分に説得力のある論証というものを読んだ経験がない。

もちろん、考えられる理由の一つは僕自身の勉強不足でありうるため、このていどの経験だけから言語についてどうこう語る筋合いのものではない。しかし、やはりもう一つの理由として、そもそもそんな論証はできないという可能性もあろう。僕が哲学としての「進展」というものがありうると思えるのは、そういう論証が「ない」という説得的なメタ論証を掲げて、少なくともそういう論証の妥当性にコミットしたプロパーは、そこからさらに先へ進んでゆくことに期待できるからだ。そこで立ち止まって、ソシュールやフレーゲやウィトゲンシュタインの残した文章の字面を眺めてウダウダと「クオリア話」をしているような連中を、僕は哲学者としてまともだとは思っていないし、信用にも値しないと思う。

無意味なことを無意味だと自覚できないか、自覚していながらやり過ごすのは、論理的経験主義というコミットメントにも遥かに劣る自己欺瞞でしかない。

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