Scribble at 2022-01-07 23:51:40 Last modified: 2022-01-08 00:07:41

久しぶりにジュンク堂の大阪本店へ足を延ばして、これまた久しぶりに哲学・思想の棚を足早に眺めてきた。本来は聾唖者、手話といった福祉関連の棚で、例の「ろう文化」で論争を始めた人々の顛末を軽く眺めておこうと思っていたのだった。そちらは後から『現代思想』編集部がまとめた本をみつけて、なるほど参考になると感心した。

さて哲学の棚に行くと、ここ数年はアリストテレス全集の残る『形而上学』が出ていないかどうかを確認するのが習慣になっていたりする。しかし、そうこうするうちに『カテゴリー論』なども品切れになってきているらしく、もう図書館で借りるか古本か、あるいは Loeb の英訳でいいのかという選択になってくる。そして、おそらくは岩波文庫の『形而上学』が新訳に入れ替わったりするのも、たぶん僕が死ぬどころか、いま岩波書店で働いている人々が死んだ後のことだろう。よって、そういうありえない期待をもとに哲学の勉強をするなどという愚かなことはやめて、いま手に入る(経済的にも、時間的・地理的な制約という意味でも、それから読める能力があるかどうかという重要な点においても)だけのリソースを利用するしかないのである。

もちろん、山小屋に籠って思弁に没頭することが哲学であるなどという、文学少年少女の妄想に近い自意識プレイなど恥ずべきであり、そのような自立など学問においてはありえぬ。われわれは生物としても社会の一員としても端的にいって凡庸であり有限な存在であるからして、現代に限らずおよ学問というものは分業でしか成立しない。ゆえに、可能な限りで自らの思想なり思考を突き放してしまうためにも、他人の成果は大事だし必要だ。いくら小平の英雄とか立命の耽美系だと侮蔑したところで、自意識だけで「哲学」と呼ばれているに過ぎない余興に暇を潰すバカがいなくなるわけでもない。バカはわれわれのことなど知らないしコンタクトする機会もないのだから、こちらも説教などする必要はないし、社会科学的なスケールで言って未来の人類社会にとって誤差ほどの影響もないなら、こちらも黙って無視するべきではあろう。こんな風に、わずかでも哲学者が馬鹿に向かって小言をタイプするだけでも、(僕個人にとっては重大な)〈残り時間〉の浪費である。

さて些事はともかく、ジュンク堂で棚を眺めていると、いくつか気づいて思うことがあった。まず、ちくま文庫からもポアンカレの『科学と仮説』が出ている。時期が近いあいだに複数の訳本が出るという事例は、もちろんこれまでにも見かけてきた。どういうわけか中才先生に多いのだが、ヒュームの Enquiry と、セラーズの『経験論と心の哲学』と、それから今回の『科学と仮説』だ。それなりに読み比べる価値はあろうかと思うが、結局はそうした末に何を業績として出すかが問題なのである。そこが日本ではオタク的な自己目的化した展開ばかりになって、蛇がてめぇのケツに齧り付くような話ばかりが続くのが残念だ。

そして、倫理のコーナーで見かけたのが「差別の哲学」と題する、いつもの応用ネタだ。「どうして差別はいけないのか?」・・・それは哲学じゃなくて、ジャーナリスティックな(またはイデオロギー的な)演習問題か応用の議論にすぎないと、大学院にいたころから先輩にも言ってきたのだが、どうも倫理学や道徳学の人々には理解されないらしい。大学で「純哲」などと呼ばれて一括りにされているだけで、トロッコに乗っているにすぎない連中が哲学していると錯覚に陥るのだろう。

この手の人々も含めてだが、暇と退屈だの何のと文庫本をばらまいてるやつにも言いたいけど、たとえば手話で表現できる語彙を使って所定のレベルの議論を展開してみようよ。中動態とか、どのみち言語学者から見れば箸にも棒にもかからないような素人談義なんだから。せめて大学でものを教えるていどの社会人として対応できる語彙の範囲で仕事をしてみたらどうか。おまえたちみたいなパブリシティやマーケティングのことしか考えていない俗物であれば、ひょっとすると厚生労働省から声がかかって、特別委員会の委員とかになれるかもしれない。そうすると、それぞれが所属する大学でも学部長の椅子が見えてくるだろう。

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