Scribble at 2022-01-02 22:52:09 Last modified: unmodified

すごく基本的な話をするのだけれど、或ることがらについて〈初めて本を書いた人が最も正確に理解しているとは限らない〉ということを真面目にうけとめておくことは大切だと思うんだよね。僕らが興味をもって取り組んでいることを「愛・知」なり "philosophy" と〈呼ぶ〉のは好きにすればいいけれど、しかしその語源を説いて西部邁みたいに「それゆえ、もともとはこうでなくてはいけない」などという、歴史的な経緯の説明と論理的な推論とを混同するような議論をしていては、いつまでたっても言語の上で堂々巡りをする他にない。こんなことは、たとえばハイデガーやデリダの本を幾つか読む気があれば高校生でも気づくはずなのだ。彼らがどちらも自らが逃げられないところで徹底的に言語へ抵抗していたことを知れば、その辺にいくらでもある二束三文の哲学の教科書とか、いまをときめく小平の英雄と立命館の耽美系のお坊ちゃんたちが「言語」とやらについて交わしているらしい雑談など1行も読む必要はないんだよね。

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