Scribble at 2021-12-23 09:33:45 Last modified: 2021-12-23 09:55:50

Twitter 上でも、あいかわらずパトリシア・チャーチランドは威勢よく議論をふっかけているようだ。いまどき大学で、いくら学部用の講座とは言え theory of knowledge (epistemology) を教えるのに脳神経科学の知見を取り入れないなんてと憤慨しているようだが、僕もそう思う。

これは英米のプロパーにも見られることなのだが、どうも歴史的な経緯として "philosophy of science" というコンセプトの趣旨を誤解している人が多いように感じる。以前に "philosophy of science" の着想を図解するような事例を幾つか取り上げて、それらの通俗的な「わかりやすさ」が逆に偏見や無理解を植え付けていると指摘したことがあるけれど、「科学哲学」とは「科学」と「哲学」の〈中間〉とか〈フュージョン〉とか悪魔合体ではなく、れっきとした哲学であるという着想として理解しなくてはいけないと思っている。

その昔、恩師の竹尾治一郎先生から、分析哲学はアリストテレスからの伝統を受け継ぐ「正当な哲学」だと伺ったことがあり、「分析哲学」は趣旨さえ通じていれば「哲学」と称して何の問題もないものだという類の発言すら聞いたことがある。これはこれでどうかと思うが、しょせん現象学だろうと科学哲学だろうと何とか実在論だろうと、一定の見識で執り行う営みとして「哲学」の言葉を掲げてはいても、同じ言語表現に回収されたからといって内容が同じであるとは限らない。

そして、僕が思うには "philosophy of science" としての哲学とは、論理的経験主義から(たぶんクワインと共に)受け継げる着想として "scientific philosophy" という理解を外してはいけない。そして、最初に言ったように多くのプロパーは、この着想を量子論や進化論について哲学的な議論をすることだと誤解しているわけである。はっきり言えば、科学哲学はナウい科学や技術の話題に関する応用哲学などではない。よって、昨年の話題として Daily Nous に掲載された "philosophy of GPT-3" のような記事を(システム開発のプロの技術者としても)鼻で笑ったわけだが、そんなものを議論するのが科学哲学なのではないというわけである。

実際、国内でも非常に強い誤解が蔓延しているが、たとえば生物種についての議論なんて科学哲学のテーマではないのだ。科学哲学として論じるべきは、〈分類〉とか〈差〉とか〈違い〉とか〈区別〉とは何かである(ここではわざと認識論的な切り口と存在論的な切り口を区別せずに書いている)。自然の法則から何かの本質的な違いによって生物種の進化や生理・生態が〈異なる〉としても、それは生物学として堅実な成果を上げて、哲学〈者〉が成果を利用すれば良いわけである。生物学においてものを考え研究するにあたって必要とされたり無自覚にでも行うような〈哲学的〉な思索は、それぞれの分野でコミットしている人たちがやればいいのであり、そこを(科学)哲学者が代行するわけにはいかないのである。自然科学者の多くが(科学)哲学のスタンスを誤解して無用な敵愾心をもつのは、そこでの(もしかすると哲学的な)思考について、哲学のプロパーが何か指図したり、ア・プリオリに正しい思考を最初から決めていたりすると思われているからなのだろう。

そこにおいて philosophize できるのは、各分野でものを考えているプロパーであり、したがって「哲学」とは大学の特定の学科で教えられている(たいていは愚にもつかない)クリシン的な与太話のことでもなければ、日本とかいうアジアの僻地で毎月のように出版されているガラクタ本に書かれた二流アニオタの妄想みたいな議論でもない。それこそ、言い古されたことだが、大阪城公園を徘徊しているホームレスだろうと、堂島の上場企業で稟議書を眺めているサラリーマンだろうと、あるいは心斎橋の片隅で若手を殴り倒したばかりのヤクザであろうと、そこでふと思って〈やっていること〉が哲学でありうる。哲学のプロパーとは、それを一定のルールや動機にもとづいて、仕事や個人的な欲求として、あるいは場合によっては〈性癖〉としてやり続けるような人々を指しているに過ぎない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


共有ボタンは廃止しました。他人へシェアしてる暇があったら、ここで読んだあなたが成果を出すべきです。