Scribble at 2021-12-14 10:29:32 Last modified: 2021-12-22 17:50:31
アマチュアなり門外漢の勉強というものは、それこそ一概にこうしているなどとは言えないものがある。その理由の一つは、プロパーから見て〈正しい〉勉強の仕方や研究・研鑽の方法と、そうでない仕方や方法とに分別できるからである。もちろん、他の理由として、恐らくは〈正しい〉勉強の仕方や研究・研鑽の方法が本当のところ何であるか、プロパーの多くも知らないか分かっていないという事情があろう。しかし、それはいまのところ問題にしない。
どういう学術研究分野においても、「勉強」は必要であろう。10歳で大学教授になるような天才でも、演算記号や母国語の勉強もせずに想像で図形をあれこれとひねり回しているだけでトポロジーの論文がひとりでに書けるわけではなく、そもそも想像だけでは何か重大な成果が導かれたことを他人に伝えられない。あるいは読み書きできないなら、自分のやっていることがトポロジーに該当する考察であるという理解すら生まれないだろう。
では、大学で演習に加わったり、そうでなくても周りの他人から教えてもらう機会がない状況で(アマチュアの多くは、そういう状況にある)勉強する場合に、一つの想定として次のように考えてみる。それは、一冊の概説書や教科書だけを使って何らかの分野を勉強するということだ。これは、多くの場合に殆ど当たり前と見做されるだろう。大多数の高校生は、漢文を勉強するために学校から指定された教科書を一冊だけ使う筈である。学校が指定していない他の出版社から出ている他の教科書を買う高校生など、殆どいないだろう。
学術研究分野の勉強でも、ほぼ同じことが言える。大学院生で分子生物学を勉強するのに『細胞の分子生物学』("THE CELL" というタイトルが印象的な大部の教科書)を手に取る人は多い筈だが、まずはその一冊を読み込むことだろう。ノートを取りながら、何ヶ月もかけて丁寧に読むなり、ひととおり目を通すていどかもしれないが、それ一冊に集中することが多い筈である。特にアメリカの教科書は self-contained という編集方針が多く、副読本や参考書や用語辞典など他に何冊も参照しなければ書いてあることが分からないような書き方は〈駄目だ〉と考える傾向にある。これは、もちろん移民国家として貧しい学生が多いという事情があろう。そして、self-contained というだけではなく plain な表現を積極的に採用する傾向も、移民国家として英語の複雑な構文とかニュアンスのわかりにくいイディオムを避けるべきだという事情がある。しかし、これは教科書の編集方針としては universal design と言っても良い。
これに対して日本の教科書は、「通俗的」という見た目だけはとっつきやすそうに見えるが、実際には思い込みだけで何の根拠もないパターナリズム(それは別の、しかも悪い権威主義にすぎない)だとか、二言目には紙面の都合うんぬんと、本当に紙が不足していた戦時中から延々と繰り返している、エロ本よりも薄い分量で仕事を片付けてしまう手抜きが横行している。これについて、字数は少なくても行間を読むのが勉強だとか、筆者の真意を阿吽の呼吸で掴む奥義を身につけるのが大学生の心得だと言わんばかりのクソ理屈を並べるならまだしも、堂々と授業で教員に内容を補充しながら使ってもらうことを前提に書いていると称する者までいる始末だ。こんな、書き手として100年近くも向上しない未熟な連中が学術研究のコミュニティを延々と何世代にも渡って牛耳っている国家において、いったい何の啓蒙なり教養の熟成ができるというのだろうか。そして、こういう連中こそが「著者の全体像」だの「ヘーゲル思想の体系」だのというお化けを勝手に作り出しては、決して打ち勝てない虚像へ向かってゆくバグだらけの RPG の主人公さながらにセンチメンタリズムを演じてみせるのが、この国の人文・社会系の学問を担っている人々の、それこそ全体像というものであろう。要するに無能な連中に学ぶのは時間の無駄である。少なくとも科学哲学を志すような中高生は、さっさと英語を勉強して英語の本だけを読むべきだ。
しかし、そこまでの段階に至っていないか、既に社会人となって大学へ進む必要も意欲もないが、科学哲学という分野の議論やコンセプトには関心があるという方々にとって、少なくともデタラメなことを書かないように参考となるアイデアやアドバイスをするなら、さきほども紹介したように、ともかく一冊の本を丁寧に読むことから始めるべきである。それは、何も「科学哲学」という文言がタイトルに印刷された本でなくてもよいし、「哲学」の教科書である必要すらないと思うが、差し当たっては他の本を参照せずに通読できるものを選ぶと良い。たとえば、岩波文庫から出ているアリストテレスの『形而上学』(上・下)でもいい。
こう書くと、恐らく思想オタクとか未熟な学生の類(呆れることにプロパーまでいたりする)が、「いや、それだけでは不十分であって、田中美知太郎先生の解説書を買い、内山勝利先生の研究書を読み…」などと、実は哲学するどころか哲学について学ぶことにおいても全く本質と掛け離れたクズみたいな批評を口にし始めるものだ。しかし、科学哲学、いわんや哲学、そしていわんや勉強するとか研究することについてもっと大切なことは、他の本を読まなければ相手に何を伝えたいのかまるでわからないような著作を、我々は古典どころか「著作物」とは見做さないのが常識であるということだ。
高校や大学では学ばないことなので学生向けに書いておくと、世の中には会社のお金で物品を買う等の場合に上長へ提出する「稟議書」というものがあり、証拠としての見積書や請求書を添付する必要はあるが、稟議というものは原則として self-contained な文書として一定の必要な事項を記述し、会社の財務をわずかでも変動させるだけの価値があると決裁権者を納得させることが求められる。決裁権者は、その書類一つを眺めるだけで、場合によっては億単位の資金を動かす決断をしなくてはいけない(もちろん巨大企業になると、億単位の資金を動かす判断でも雑談しながら判を押すバカもいるにはいる)。確かに、そういう制約された条件でものごとを判断する〈べきだ〉とか、そういう状況が decision making として理想的であると言っているわけではないが、そういう状況でものごとを理解したり学ぶことを原則なり基本としては〈ならない〉と言ったところで、多くの現実はそうではない。
つまり、一冊の本を他に何も参照せずにどうやって丁寧に読み、そしてどうやって可能な限り適正に理解(あるいは自分の理解が間違っている可能性があると留保)するかが、現実的で、しかも広い意味での「アクセシビリティ」という観点から言っても適正な実務とか勉強の方針というものである。だいたいにおいて、大学教員やプロパーが書く勉学の話というものは、開成高校の生徒を「標準的な」高校生と見做すかのごとく高慢な前提で、機械みたいな思考力やウィキペディア並の情報量をもつ、得体の知れない相手を想定して書かれる。加えて、教育社会学などの統計が教えるように、いまやたいていのプロパーは資産家の息子や娘なので、無尽蔵に洋書が買えたり Elsevier で高額な論文をダウンロードできるかのような人々を啓発やアウトリーチの相手と見做している。そのため、これこれを知る・学ぶ・研究するには、だれだれの本を買って取り揃えるという事を平気で言うし、それが高等教育での勉学や学術研究の常識であるかのように語るわけである。ついでに、パパからもらったお小遣いでハーヴァードの大学院へ留学したり、フッセリアーナを訪問するていどの暇潰しが推奨される場合もあろう。
しかし、それらは全て錯覚である。いまや上下巻で揃えると3,000円近くするが、文庫本で手に入る『形而上学』について、思い込みや誤解や理解不足があれ丁寧に読み込んでノートを取り、著作とノートを読み返していくという経験を積み重ねることにも、一定の価値や効用がある。それどころか、寧ろ数年を費やせる大学生に、初年度の時点でそういう著作を一つ選ばせて、卒業までに読み込んだりノートを取らせる(そして、それを卒論と合わせて学位の要件にする)ような制度をつくらないのは何故なのか不思議なほどだ。自分で丁寧に仕上げた読解の成果を、自分自身で叩き潰すような経験を得てこそ、自分が未熟であることを人は理解できるし、恐らくは自分が読んでいる古典と称されるような著作を書いた当人ですら、同じように思っていたかもしれないという理解へ至るであろう。学問とは、およそわれわれが何を知っているかだけではなく、われわれが何を知らないかも見出す営みのはずである。しかも、哲学はその最も厳しいと思える限界に挑む(Putnam 流に言えば)エキサイティングな営みであって、洋書を読みふけっているヒゲオヤジの妄想や暇潰しなどではないはずだ。もう少し、プロパーには〈実務〉という着想について真面目に考えてもらいたい。