Scribble at 2021-12-01 09:07:56 Last modified: 2021-12-01 09:11:28

さきほど RSS フィードを購読している勁草書房のサイトで、倫理学の基本論文集が出版されることを知った。思えば、こういうアンソロジーは既に「現代哲学」と称して、いわゆる論理実証主義の古典的な論説だとか、いわゆる日常言語学派の古典的な論説だとかを集めた著作物があり、少なくとも僕ら1980年代の後半から1990年代の前半にかけて戦後の英米哲学を専攻しようと大学へ入った多くの人々は、ひととおりそれらに目を通したと思う。

で、それがどうしたのか?

これは非常に答え難い質問の一つだ。或る見識なり社会的なポジションを得るのに、或る情報だとか論説を読んだこと自体が、何か明白に原因なりきっかけになったと言いうる強い根拠を示すことは、たいてい難しい。これは哲学のプロパーだろうと心理学や社会学や脳神経科学のプロパーだろうと、そういう類の「因果関係」を思い出したり記述することは、原理的に困難だと言っていい。そういう記述に役立つ記憶や思考の記録なんて、誰であろうと正確に測定したり記録できる手段なんて、現代の科学が与える成果の範囲にはないからだ。したがって、ここでも原理的に困難だという前提を置いて、その上で一つの推定を述べる。それは、この手の著作物は分析哲学や科学哲学を学ぶにあたって、いわんや哲学するにあたっての必要条件などでは断じてない。読むか読まないかは、はっきり言って関係ないのだ。

そして、もう一つだけ言っておくと、この手の10や20の論説を集めた「基本論文集」と呼ばれる雑なアンソロジーを読んでも、結局は雑な理解を強化する役にしか立たない。しかも、こういう本をわざわざ読むのは哲学科で学ぶ平凡な学生ではなく、ほぼ分析哲学の研究職を目指すような(あるいはそれと同等の意欲ある)学生だけである。よって、プロパー志望の学生に雑なアンソロジーで偏見を植え付けるという意味では、教育的な観点から見てもあまり望ましいとは思えない出版物の一つと言っていい。

もちろん僕も「基本論文集 I, II」を手にして、竹尾先生の翻訳などを読んで学部時代を過ごした一人であり、個々の翻訳という成果について要不要とか是非を評価するつもりはない。日本で生まれ育った人間にとっては、大きな誤訳がない限り母国語に翻訳された文章を読むほうが、英語の原文で文章を読むよりも負荷は少ないだろう。そういう陳腐な事実について翻訳出版物の社会的な意義を認めたり称賛することに躊躇したり冷笑を向けるほど、僕は日本の出版社の活動を愚劣だとか低俗だと思っているわけではない。しかし、称賛すべきことをやっているからといって思い上がってはいけない。そういう出版活動に本当に教育的・社会的・学術的な効用があるかどうかは、自明ではないのだ。

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