Scribble at 2021-11-25 09:46:17 Last modified: unmodified

日本国内の実績だけに限らず、海外の論説を眺めていても分かることだが、たとえばギルバート・ライルという人物は、名前だけなら学部の学生でも分析哲学の概論くらい受講していれば覚えるだろう。しかし、彼の『心の概念』という著作だとか、あるいは「機械の中の幽霊」という他人の著作でも頻繁に使われて人口に膾炙したフレーズはともかくとして、結局のところライルがどのような議論を展開したのかとか、もっと簡単に言ってライルは『心の概念』で何を主張したのかは、はっきり言えば分析哲学のプロパーですら雑感でしか語れないだろう。自身の記憶だけを頼ってライルの議論を批評してみよと解答用紙を渡されたら、果たして何人がまともな論述を書けるのかは疑わしいと言わざるをえない。恐らく、いまをときめく日本の出版業界のスター通俗物書きたちに試してみてもよい。アホみたいに数多くの蘊蓄を書き込む〈情報処理〉の能力は認めてやってもいいが、さて記憶から何をどう突き合わせたり展開した経験があるのやら、二束三文の「人工知能」を使ったアウトライン・プロセッサが弾き出す回答を超える何かが四国や小平から出てくるとは、とうてい思えない。

そういう意味では、もちろんライルに限らず過去の先人らの実績についても、同じことが言える。ヒュームやフッセルについてなら膨大な数の論説があると言われるかもしれないが、それはギルバート・ライルの研究書が日本に一冊もないことと、ヒュームの研究書が(恐らく)何十冊かは出版されていることの差だけを見ているにすぎない。

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