Scribble at 2021-11-22 09:47:18 Last modified: unmodified

collective intentionality について調べていると、たまたまドナルド・ギリースが医学でもちいられる因果関係という論説を発表している事例に出会った。こういう論説を参考に、もちろん『医学と仮説』についてのページをフォロー・アップしてもいいのだけれど、肝心のヒュームについて議論する箇所を書き始めようとしても、何とも不勉強な素人の議論をあれこれと論評する意欲がない。確かに僕もいまでは殆ど素人と言ってよく、Don Garrett の「コピー説」という表現も見聞きしたことがなかったくらい、大学を出た後は関心を持ち続けていなかったのだから、議論に関わる知見については他人のことをとやかく言えないわけだが、僕が言っているのは哲学の議論としての話だ。底の浅い話をあれこれとほじくり返したところで、何が出てくるわけでもない。哲学的に時間の浪費であることは分かっているが、こういうことを(科学)哲学のプロパーがいちいち対応するのは学術研究コミュニティ全体としての労力や時間の浪費であり、この程度の通俗本を EC サイトのレビューやブログの書評で牽制するのは、アマチュアの役割だという矜持みたいなもので〈あれ〉を書き始めたのだけれど、いくら何でもアマチュアだって才能や時間は浪費したくないし、同じ生物の個体である限りは〈残り時間〉というものがある。医学や哲学の講義どころか一般人ですら簡単に手にとったりしないような通俗書を相手にするにも、限度というものはあろう。それに、ヒュームの議論へ進むところまでですら、かなりコテンパンにしたという自負はある。これに加えて、かつてヒュームに関連する勉強で学部時代を過ごした者として、更に何か強烈な一撃を加えて何になるのかという気もする。よくある冗談と同じで、「死体にイオナズンを唱えるようなもの」だ。

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