Scribble at 2021-11-17 10:40:00 Last modified: 2021-11-17 10:42:14

ものごとをたくさん知るに越したことはないと言うが、本当にそうだろうか。もしそうであれば、我々は学問から政治に至るまでの一切合財を、元 SE やゲーム・デザイナーの乱読家、あるいは「編集工学」を標榜する切り貼り思想家に委ねたらいいのではないか。その手の、ここではお馴染みの言い方だが、〈情報処理〉とか記憶の総体が「善」だの「利益」だのに資する、最も有効な性質であれば、それを〈徳〉と称することに何の憚りがあろうかというわけである。

もちろん、これは歴史的な事実として正しくない。合衆国大統領として抜きん出た読書家だったフランクリン・ルーズヴェルトが最善の大統領だったと言いうる根拠はないし、もちろん現在の日本で最大の読書家とされている「編集工学おじさん」(その前に同じ名誉を受けていた立花隆や紀田順一郎でもいいが)が最高の思想家だなどと本気で信じているのは、都内の出版業界の人間ですら僅かだろう。

しかし、次のように反論はできる。最善の実績を出せるのは、それら中途半端な「知の巨人」どもではなく、最高の人物だけである。その閾値を超えない限り、誰がやっても同じことでしかないというわけだ。あるいは、それぞれの適切な分野に応じた人物が担わなければ、ミスマッチによって最高のパフォーマンスは出なくなるといった、社会科学的な減らず口を叩くこともできる。しかし、おおよそ殆どの人々は、何を言おうと知識の総量だけで物事の是非が決まるわけではないということくらい知っているがゆえに、そのような言葉ないし観念の遊びを真面目に受け取ったりはしない。

では、我々が読書家なり多読家や乱読家や速読家、あるいは記憶力が高い人々でもいいが、そうした〈情報処理〉に優れた人材を社会的に重要な地位へ優先して登用することを積極的に推進しない理由は何なのか。我々の大多数は、東大総長が内閣総理大臣をやればいいとか、ノベール賞を受けた人物が文部科学大臣をやるべきだと単純には思わない。物事の情報をたくさん記憶しているということと、それらを正しく活用できることとは別だと思うのが自然な見識というものだろう。いま放送されている NHK の朝ドラでも、親が息子に向かって大学で勉強しているていどでビジネスができると思ったら大間違いだと諭す場面があり、こうしたセリフは昔から何度となく色々な媒体で繰り返されてきている。このように、情報の蓄積と情報の活用とは異なる能力であり、ただの物知りに世の中の課題を解決する力はないというのがおおよその理解なのであろう。(大学教員や理論が役に立たないと言われる場合は、活用できても情報が浮世離れしていて偏っていると思われているからだ。もちろん、その浮世とやらが各人の狭い経験にすぎない、もう一つの偏った情報にすぎないわけだが、凡人に自らを正確に反省したり理解する力は乏しい。)

少し僕自身の状況に照らして話をすると、僕はそろそろ極端に掛け離れた事柄の情報を〈知っておこう〉としたり、いわゆる情報のアンテナを張るような行為を控えることにしている。そうする最も強い理由は、もちろん自分自身の人生の残り時間が少ないからだ。満足のゆく成果を上げるには集中することが望ましい。いつまでも学部の学生みたいな大風呂敷(既にここで公言した、科学哲学の概論を書くという僕のプランは、確かにアマチュアにとっては大風呂敷もいいところだが)を広げて、あれやこれやと「哲学的な」話題をつまみ食いしているだけでは、それこそ大多数のプロパーやアマチュアや都内の物書きと同じように、出版業界やオンラインでのパフォーマンスはあれこれできても、学術において堅実な実績を積み上げることはできない。せいぜい、思想おたくが喜んで何冊も買ってくれる通俗書を数年おきにてがけて、離乳食並みに加工した古典の議論だとか、あるいは水槽に入った脳だとか実験室に隔離された科学者とか雷に撃たれたおじさんについて延々とクリシンごっこを展開するのが関の山であろう。

よって、具体的な話題を出すとすれば、たとえばアラブとイスラエルの対立について(高校時代から中東戦争のウォーゲームに興味があったという長い経緯はあるが)必要以上に詳しく調べるのは打ち切ったし、これについて詳細な知識がないからといって、何ごとか哲学として僕自身が重大だと思う問いを考えるにあたって重大な過失を犯すとは思えない。確率の概念を考察したり、あるいは why there is something rather than nothing の問いを探求するにあたって、ガザ地区の悲惨な状況(これは先進国の大人として常識的な範囲での知識はあったほうがいいと思うが)や中東戦争の知識が必須だと言う哲学者など、いるわけがないと思う。また、自然法則や説明理論を研究するために必須の知識として、古代中国の殷王朝について何らかの知識を趣味的なレベルですらもっていなくてはならないと考える哲学プロパーなど一人もいまい。要はそういうことだ。

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