Scribble at 2021-11-05 20:59:23 Last modified: 2021-11-10 21:51:28
岩波書店が凝りもせず、新書で独学するというコンセプトでフェアを開催しているらしい。この20年くらいで雨後の筍のように乱造された新書のレーベルなり新書本だが、結局は岩波新書、中公新書、講談社現代新書、講談社ブルーバックス、平凡新書、集英社新書、ちくま新書などの大手出版社が出すレーベルが残って、それ以外は創価学会とかネトウヨとか草の根左翼とか特定の読者がついている弱小レーベルが細々とタイトルを出している状況に落ち着いている。思えば、あのライブドア元取締役の Perl 使いや自称仏教者の宮崎哲弥といった人々が、新書というフォーマットを持て囃すキャンペーンの先頭に立っていたのが10年くらい前だったろうか。あれから何が変わったのだろうか。僕には、新書が無意味に分厚くなって、値段も1,000円を超えるのが当たり前になったという外形的な変化が起きたことくらいしか分からない。それらを読み漁ったのかどうかは知らないが、人々の知見なり見識がどのていど底上げされたのやら、そんなことは例によって〈社会科学的なスケールで言って誤差の範囲にすら捕捉不能な〉違いしかもたらさないだろう。
そもそも、今回のフェアにしても趣旨がよく分からない。新書なんて大学のテキストになったりしないのであって、もともと独学というか大学での勉強とは別の脈絡で読むものと相場が決まってるだろう。新書で独学をサポートするなどと称して、いったい出版社として何の自意識プレイをしたいのか、いまいち意図が測りかねる。敢えて想像すれば、こういうのって結局は草の根左翼がよくやる「学習活動」みたいなものをモデルにして、若者向けに表装替えしてるだけだったりするんだよね。つまりは、ただのマーケティングだ。人々が知識をどう得て活用するのが望ましいかなんて、全く考えてなかったりする。そして、権威主義と左翼の強力な応援団みたいな出版社が、こうして自由経済活動の典型みたいなことをやり、あろうことか「独学」をサポートするなどと、いったいどの顔を下げて言うのかと失笑を禁じえないところだ。
それから海外の実情と丁寧に比較した結果ではなく印象にすぎないが、「独学」というアプローチを何か自意識過剰なアイデンティティの拠り所のように過大評価したり美化する傾向は、ほぼ世界中でも日本だけだろうと思う。こう言っては推奨している人々に気の毒だが、幼児の頃に二宮金次郎を始めとする〈独学の偉人たち〉の伝記絵本を読みすぎたのではないか。そういう刷り込みのような認知的抑制が無意識に国家的な規模ではたらいているのではないかと思えるほどだ。
確かに、僕も考古学の恩師である森浩一先生がしばしば「町人学者」という言葉であらわしていたようなアマチュアリズムを(別の分野においてであれ、いまもこうして)受け継いでいるという自負があるから、大学の「正規の」手順とは別の仕方で学んだり学術研究に携わるということを一概に否定するものではない。
しかし、それと同時に僕は(かなり限定した条件をつけるが)安易な多様性おたくを排斥しつつ共同体を防衛するような、保守主義と権威主義を支持する者でもある(詳しくは MarkupDancing の「シュナイアーの法則」という論説をご覧いただければよい)。よって、アマチュアとプロの単純な比較は時間と労力の無駄であり、アマチュアは(プロの側によって)比較に値すると判断されるだけの明白な業績を上げることが要求される。学術研究の業績を公に評価することがプロの側の権威によって為されるものである以上は、そのような非対称性なり格差を破壊したり乗り越える業績を上げてこそ、アマチュアは学術研究を公に問う力をもつと言える。そうでない限りは、何を書こうとも、中学生の自由研究発表や、金持ち老人の自費出版、あるいは元 SE とかゲーム開発者だった乱読家どもを「思想家」に仕立て上げる国内出版業界の実情がよく示しているように、〈ただのマーケティング〉にすぎないのだ。