Scribble at 2021-11-02 09:53:55 Last modified: 2021-11-10 21:56:20
いつものことだが、アマゾンには売れ残りの在庫処分か他の理由で非常に安く販売されている洋書がある。本書も500円以下で販売されており、原価割れとまではいかなくても相当なディスカウントであろう。こうした変則的な値付けは変則的であるがゆえに、恐らく同じ書籍では二度とないようなチャンスであるため、いま読む必要を感じていなくても、見つけたら買っておくこともある。もちろん、本書もそのようにして買ったものである。
タイトルから分かるとおり、本書は学部生向けの(しかも哲学について全く学んだことがない学生を想定した)入門書あるいは副読本である。もちろん、いちおう国公立大の博士課程に進んだ人間が、この手の学部レベルと言ってよい本を単なる「学習」のために何冊も読む必要などない。こういっては不遜に聞こえるかもしれないが、大学を出てから20年を超える時間が経過しようと、われわれは60歳から暇潰しに高校の数学を勉強し始めるような人々とは学ぶ動機も水準も違うのである。しかし、本書のような著作は、著者ないし編者の方針とか見識、それから reading list として紹介されている参照文献に独自の価値があり、とりわけ僕のように学術研究分野の概説・概論をつくろうと構想している場合は、このような著作物を色々と読み比べる必要もあろう。
本書は、タイトルに "readings" とあるとおり、過去に公表された著作物や論文を再編集して集めたアンソロジーだ。Oxford Readings in Philosophy のようなシリーズでは、原則として論文を抜粋せずに収録していたが、本書のようにオリジナルでは20ページ足らずの論文でも抜粋されて収録されることがある。よって、元の論説を全体として正確に読みたいとか、本書に収められた論文を参照して自分の論文を作成したいという目的があるなら、こういうアンソロジーを〈使ってはいけない〉と教わる。こういうことは、学部時代に教官から指導を受けたり先輩から適切な参照方法を教えてもらうしかなく、高校を出て独学でやっていても分からない、制度化された時代における〈哲学の実務〉というものだ。ちなみに、こういうビジネス・ライクな言い方をしているからといって、これが現代だけの通俗的な事柄だと思いこむのはやめたほうがいい。考えようによっては、古代のギリシア人や中国人やインド人やアラビア人も、この手の〈実務〉という概念を共有していた可能性はある。(もちろん、それが "art" の概念と近いものだったとまで言うつもりはない。)
さて、このような著作物を手にとって何度か思ったこととして、日本にも勁草書房から『現代哲学基本論文集 I, II』(なお、当サイトの "About" で述べたように、僕は「現代哲学」という表現は認めない)のようなアンソロジーはあるし、もちろん翻訳ではなく国内のプロパーが論説を寄せたアンソロジーもあるが、やはりアメリカで出版されるものと比べて不十分な印象が強い。まずはっきり言えるのは、単純に論説の分量が少なすぎるということだ。よほどテーマを狭く限定してあればともかく、たいていは「現代哲学」だのと大風呂敷の割には、300ページほどのハンディな体裁で10本ていどの論文が収められているにすぎない。しかし、その冒頭に掲げられる編者や訳者の文章において、当該の著作物に収められた論説で、十分とはいかなくとも必要なだけの素養は持てると(実証は無理にせよ)論証している事例など、ついぞ見たことがない。せいぜい、紙面の都合でどうのこうのと判で押したような言い訳が書かれているくらいだ。
確かに、そういう論証によって現象学なり分析哲学の基本的な素養が得られるという保証がどこにあるのかという事自体が重大な論争を引き起こす可能性はあるが、僕に言わせれば「それがどうした?」と言う他にない。論争が起きたら論争すればいいだけのことだ。既存の著作について疑義を申し立てて新しい概説書を出版すると、どこかの「有名教授」とか「有力教授」の怒りを買って二度と国内の出版業界から声がかからなくなるといった事情でもあるのか。東京とかいうアジアの辺境地区ではどうなのか知らないが(とは言え、僕はその文化的僻地で出版業界にいたこともある)、少なくとも僕は関西の大学にいて、そんな話は聞いたことがない。著者や編者が従来の通説や定説に重大な疑問をもっていれば、新しい学説なり研究のアプローチなり概論を述べる新しい著作物を世に問い、異議申し立てをすることで学術を展開(「前進」や「進展」である保証はない)するチャンスをもたらす。一ノ瀬氏や伊勢田氏を怒らせたら、勁草書房から本が出せなくなるなんて陰謀論などなかろう。(もっとも、僕は彼らを不愉快な気分にさせる文章をここでよく書くわけだが、アマチュアである我々にとって彼らのご機嫌などどうでもいいことだ。そして、それがおおむねアマチュアとして学術に携わることの利点でもある。文科省や大学の理事や出版社なんて、完全に無視しても哲学者の〈実務〉として何の不足も生じない。)
それから、本書は入門レベルのアンソロジーとしては第3版を数える。初版は1980年で、第2版が1988年、そして第3版が1998年だ。この手の本が版下を2回も作り直しているのだから、それだけ売れたということなのだろう。アメリカであっても、中小の出版社には、売れてもいない本の版下を再編集して刷り直す予算なんてないものだ(ちなみに本書の出版元である Prometheus Books は、ニューヨーク州立大学の哲学教員だったポール・カーツが起業した)。その分野で定番とか基本書として評価されているテキストは、生物学でも解析学でも数年ごとに改版しているし、そうして印刷しなおしても売れるわけだが、哲学ではアメリカであっても初心者向けの概説書やアンソロジーで版数を重ねる著作物は少ない。ただし、自然科学のテキストとは違って50年前に出版されたテキストでも〈読める〉という事情も、版を改めなくても出版し続けられる理由の一つなのだろう。しかし、アンソロジーの場合は収めるべき論説の取捨選択は変わってもいいし、概論であれば内容の構成も改められてしかるべきだろう。現代の科学哲学の教科書として、いまさらフェミニズムや STS や IT の成果を無視した著作物が通用するとは思えない。それこそ、哲学者ぶって「本質だけを議論する」という言い訳を並べて、現代のテーマについての不勉強を言い繕っているだけだと学生に思われるのが関の山である。