Scribble at 2021-10-21 17:42:08 Last modified: 2021-10-21 17:46:43

添付画像

客観性とは何か。科学はいかにして「客観的なもの」と向き合うようになったのか ——。近世の博物学や解剖学から、写真の衝撃を経て、現代のナノテクノロジーまで、科学者の実践や「認識的徳」の展開をたどり、客観性の歴史を壮大なスケールで描き出した名著、待望の邦訳。カラー図版多数。

ロレイン・ダストン、ピーター・ギャリソン『客観性』(瀬戸口明久、岡澤康浩、坂本邦暢、有賀暢迪/訳、名古屋大学出版会、2021)

MD でも書いたが、Objectivity を翻訳するとは恐れ入る。

まず、原著の装丁で採用されている絵柄を薄く踏襲しているものの印象は弱い。僕が持っている原著は Zone Books のシリーズらしく、A Forest of Symbols とか A Million Years of Music のような同シリーズから出ている本と似たようなデザインの装丁になっているが、訳本は単独で出るのだから、そういう装丁を無理に踏襲する必要はないので、さほど印象的には作られていないのだろう。

それよりも、さきほどジュンク堂で見かけて手にとってみたら、まず驚くのが原著よりも遥かに薄い本だったということである。ペーパーバックの原著と比べて6割くらいの厚みしかない。恐らく本文の文字サイズを小さくできる二段組にしたからなのだろう(縦書きの1段組だと、本文の文字サイズが小さすぎたら、改行したときに次に読むべき文字を見失いやすく、読者にストレスが溜まる。こんなのは編集で食べている人間の常識だ)。それから、原著は紙がかなり厚いため、日本の薄くて上質な紙へ、これまた日本の誇る技術で印刷すれば、本としての厚みはなくせる。訳本は448ページだから、原著の501ページと1割くらいの差しかない。それで厚みが4割も減っているのだから、やはり紙が薄いのだろう。

とは言え、税込みで7,000円の大著を手に取るのは、それなりにチャレンジングだ。僕が2013年にペーパーバックで買ったときも、いまのアマゾンでの値段と殆ど同じく3,500円ていどだったから、やはり原著で読めるというのは色々な意味で得だ。もちろん、僕の英語力など訳者らに比べれば大したことはないから、思い込みや誤解も多いとは思う。しかし、そもそも学術研究の文献の殆どは誰も翻訳などしてくれはしない。翻訳されるのを待ってから読まなければ〈研究できない〉などというのは、学術研究全般、なかんずく哲学においては寝言に近いであろう。そもそも、本を読まなければ〈哲学〉しえないかのような思い込みを再生産してるクズどもとの相対的な距離でしかものを考えたり語れないような、下方圧力を無自覚に自分たちへかけているかの知的スタンスを相対化できない馬鹿に哲学の著述を手掛ける資格などないのだが、まぁそれは本書とは関係のない話だからいい。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook