Scribble at 2021-09-30 09:47:45 Last modified: 2021-09-30 09:52:21

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Alexander R Pruss Infinity, Causation, And Paradox Oxford University Press, USA ( 2018)

上記の本が、なぜかパブリック・ドメインになっていた。どういう経緯があったのかは知らないが、このように公刊されたばかりの著作物でも、いきなり自由に扱える場合がある。

そういう状況と呼応するように、Internet Archive は、このところ書籍がどんどん "Books to Borrow" の扱いになっていて、自由にダウンロードできなくなってきている。やはり著作権なり隣接権のトラブルが増えてきているのだろう。なんにせよ、書籍についてはあまり自由に読めなくなっているため、その点では期待できなくなっている。その代わりに、JSTOR やパブリック・ドメインの論文にすら〈何らかの権利〉を主張して自由に翻訳させようとしない手合い(翻訳の承諾をわざわざメールで送っても、permission center だか documentation center とかいう団体に照会しろと丸投げするだけで、照会したところ結局は正当な理由もなく著作権が切れている論文の翻訳でも許可されない)の論文が大量にアップロードされ続けているため、こちらは引き続き利用させてもらっている。

言っておくが、僕は SciHub は使っていない。あれは一種の著作権法上の「テロ活動」なので、期待する分野とか読みたい論文がアップロードされているとは限らないし、何よりも読んだという既成事実を作ることが優先だから(実際、典拠表記に論文の書誌情報を掲載していたとして、著者が本当にその論文を読んだのか、正当な手続きで論文を手に入れたのか、レフェリーが確認する方法はない)、アップロードされている体裁がバラバラで、もちろん明日になったら消えてしまうかもしれない。言ってみれば、必要な人どうしで場当たり的に情報を交換しているような体裁だから、簡単に言ってしまえば世田谷の路上で官僚の息子や成金の高校生が麻薬の取引や同級生の売春斡旋をしているのと同じである。口を開けば「集合知」だの「シェア」だの「情報の南北問題」だの academic democracy だのと安っぽいスローガンがいくらでも出てくるようだが、とどのつまりは LIFE や紀伊國屋書店で万引するガキが「プレカリアート」だの「格差社会」だのと口答えしているのと同じである。

知恵や知識というものは、詐取あるいは犯罪によってしか手に入らない類のものならなおさら、実は人が生きるために不可欠だったり、本当に重要なものなどない。たとえば国家機密なんて、ほんとうのところわれわれが生きるために、いわんや善く生きるためであればなおさら、必要でもなんでもない(それをもたなかったせいで北朝鮮のミサイルが飛来する場所にいることになろうと、それは別の話である)。本や論文という他人が書いたものは、どれほど称賛され珍重されようと、結局は僕ら自身が読み、そして考えて成果にしない限りは、他人が話題にしている未知のデータでしかない。そして、そのデータがなかったせいで致命的な過ちをおかすかどうかは、その入手し安さによって後悔の強さに関連するのは確かだが、仮に入手しやすいデータだからといって、それを入手して読み考えなかったこと自体を〈形式的に後悔〉しても無駄である。なぜなら、入手しやすいという条件だけでいいなら、そんな未知のデータなんてものは多額のお金を出費して本を買ったり学術雑誌を購読しなくても、既に処理不能なほど膨大な数と分量で正当に公開されているからだ。オープン・アクセスで公開されている論文だけでも、既に我々は処理しきれないだけの情報(へのアクセス可能性)を手にしている。

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