Scribble at 2021-09-23 08:57:57 Last modified: 2021-09-27 16:15:25

学術分野のテキストとして、アメリカで制作・販売されているような大部の書籍が一つの理想だという意見は何度か示唆してきた。僕も、こうした self-contained なテキストを自分でも使ってきて良好な成果があると思っているし、自分で制作するとしても同じように編集方針を立てると思う。日本の〈行間を読ませる〉ような薄いテキストの大半は、そもそも大学の講義で教員が説明するための補助的なノート代わりみたいなものだし、自習用として制作されている場合でも行間を読むことが訓練だなどと、まことしやかに開き直る人々もいる。しかし、それらは全て「表現」に関する無能や怠慢を自己紹介しているだけの話であり、国際的な水準では何の正当化にもならないと思う。それは、日本で生まれ育った一定の生活文化を共有する日本語話者だけを暗黙の対象とした、およそ「排他的」と言いうる思い込みでしか説明できない態度である。

学術研究者の大半がそのていどの、人としての未熟さを抱えていてもおかしくないし想定内だが、それをテキストの(国内の出版事情だけで通用する)編集方針として多くの出版社や編集者が共有しているという事態は、はっきり言って異常だと気づくべきである。いわんや哲学に携わっているような人間が、このていどの〈哲学〉的な思考すら軽視して、単純に印刷や販促のコストとの兼ね合いだけでエロ本同然の薄いテキストばかり市場に送り出すのは、哲学に携わる者として以前に人として恥を知るべきだと言いたい。もし本当に満足のゆくテキストを世に送りたいなら、複数の出版社を巻き込むなり多くの研究者の手を借りるなりして、幾らでもページ数を増やしたり編集上のコストを節約したり、あるいは予め多くの大学の講座でテキストとして使用してもらう予約をとりつけるなどして、初版の部数を多く設定して一冊あたりの価格を下げるといった工夫はできる。それこそ、いまどきなら大学院生が集まってクラウド・ファンディングを利用すれば更に適切な条件で出版物を制作できる可能性もあろう。

ただ、そういう self-contained で大部のテキストを1冊だけ読めば、いわゆる〈お腹いっぱい〉になってしまう初心者が多いのも事実であろう。したがって、よほど扱うテーマや論争点などを exhaustive に集約しないと、〈壮大で体系的な偏見〉を与えるリスクも同時にある筈だ。たとえば、クズみたいな連中が書く『古事記』や『日本外史』(頼山陽)の分厚い解説本などを想像してみよ。そういうわけで、恐らくは自然科学でも厳密には似たような状況にあると思うが、社会科学や人文学のテキストではなおさら注意を要する。科学哲学のテキストを編集する場合でも、可能なら山形浩生氏といった科学哲学嫌いを公言している人物などにも通読してのレビューを依頼したり、あるいは彼のブログから記事を引用するのが逆に有益かもしれない。あるいは、普段は黙殺してバカにしている共産党員にも、「科学的」な立場からレビューを求めたり、北陸で新型コロナウイルスのワクチンに関する陰謀論を叫ぶ愚かな大学教員を始めとするニセ科学や素人科学の人々にも「バカの見本」として意見を求める方がいいかもしれない。

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