Scribble at 2021-09-13 09:09:43 Last modified: unmodified

自分が同意できない考え方や議論を、自らの論説でわざわざ紹介して反論してみせるスタイルを「薙ぎ倒し」と呼ぶことにすれば、端的に無視して済ませるスタイルは「スルー」と呼べるだろう。何事かを論じるに当たって、どちらのスタイルを採用するのが〈読者にとって〉望ましいと言えるかは、恐らく色々な条件に依存すると想定できる(その条件が仮に一つか無条件だとしても、条件が「0以上はある」と想定して出発するのが健全だ。もちろん、その場合は条件が少なくとも一つは有る筈だと思い込んではいけない。正確に「0以上」と考えて、条件が無くても妥当な議論をするのが正しい)。

愚にもつかない議論を、この宇宙に存在しないカスのようなものと見做して、我が著作物に名前を記述することすら汚らわしいと思うのは勝手だ。本人がそう思うのは好きにすればいいけれど、そういう感情は誰のであれ論説として適切であるための条件ではない。たとえば、先日の投稿で列挙した国内の哲学プロパーや物書きといったクズどもの著作物など僕は最初から1行も読んではいない。よって、読まずに判断するのは不当だという反論は可能だから、僕は恐らく自分で書く論説(ここで書いているのは落書きである)や論文では、「スルー」することだろう。そもそも〈哲学の著作として〉言及するほどの価値もないがね、こんな連中の書くものなど。池田晶子だの苫野一徳だのという人物の書いたものについて、わざわざ紹介してどうこう論ずること自体に価値があるとは思えない以上、どのような反論があろうと読むことそのものが僕自身の人生の浪費に他ならないのだし、特定の著作物については読まずにあれこれ言う資格はないと言われれば、そのとおりである。実際、僕はあれらの連中が書いた「著作物」を侮蔑したことなど一度もない。読んでないし、そんな必要は微塵もないと思っているのだから、当然だ。無能と判断した人間の書いたものをわざわざ読む責任など、プロパーでもない者に要求されては困る。たとえバカの書いたものを読むのに2時間ていどで済むとしても、その2時間で科学哲学としての知見を自分自身で確実に 1mm でも前進させられる可能性があるなら、その2時間は僕にとって確実に何らかのインセンティブがない限りは時間の浪費である。

もし、僕が(科学)哲学の概論を実際に構想や構成の段階を経て書き始めるとすれば、その対象として想定されるのは「哲学」という言葉を自分にとって関係があるかどうかも自覚がない、しかしそこで議論されていることを参考にできそうな人々だ(したがって、中学で KdrV を読んだのどうのと言っている小僧など、僕には興味がない。有能だという自覚が本当にあるなら、概論なんて読んでないでさっさと海外の大学なり大学院に飛び級で入るべきである)。そういう文章を読む人々にとっては、まともな哲学の著作物と、嫌われる何とかや勉強がどうこうという駄本との区別がつかないため、できれば実際に紹介して叩き潰しておくことが啓発的というものであろう。しかし、そのためには実際に読んで無能どもの議論を引用したりまとめなくてはいけないという、それなりに学術としての誠実さを求められるような作業(それがたとえ哲学者としての僕にとっては決定的な時間の浪費であろうと)が求められる。もちろん、そんなことは避けたい。そこで、やはり哲学について紹介した後は、それらに類するタイトルが使われていても、世の中には無能や気違いの書いたものがたくさんあるという事実を指摘して、それらを幾つかの徴表によって切り捨てるためのリテラシーという話題を取り込んでおくのが良い。そうやって、リテラシーを身に着けた人々が、ガンダムで哲学を語る(もちろん語ってもいい。それ自体を侮蔑しているわけでもないし、ガンダムというアニメや小説を侮蔑したいわけでもない)といったスケベ根性とかマーケティングという動機だけでものを書いているクズどもを避けられるなら、それでいい。具体的な著作物ではなく、著者とか出版社の単位で切り捨てる方が合理的である。これはもちろん一種の〈差別〉になりうるし、僕は既に「モヒカン族」というアプローチに異議を持っているため、愚かな本を書くやつは人としてもたぶんクズだろうと言う感触があるので、本当に社会学的なニュアンスでの「差別」となりうるリスクは理解している。

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