Scribble at 2021-07-25 13:37:27 Last modified: 2021-07-28 12:06:02

クワインは論文「経験論の二つのドグマ」で分析的真理の定義の試みが失敗することから、分析的真理と綜合的真理の区別を否定しました(この概略については、私の以下の講義ノートをご覧ください。

36 「分析的に真」と「アプリオリに真」の新定義の提案 (20210724)

僕の学生時代は全く存じ上げなかった方だが、恐らく分析哲学のプロパーではないのだろう。そういや、僕が神戸大にいたときの指導教官(副査)の一人だった松田先生にしても、先生は分析哲学のプロパーではないが、何か分析哲学に関連する課題を預かっていた覚えがある(申し訳ない話だが、中退したので完全に忘れてしまった)。また、その後も茶谷君とメレオロジーの本を出している。こういうことは特に珍しい事例ではなく、寧ろ科学哲学のプロパーにハイデガーやフーコーを毛嫌いしたり、また現象学のプロパーに量子力学や数理論理学を闇雲に侮蔑するような陋習がはびこっていることこそ、愚かな話だと思っている。そんなわけで、ドイツ観念論の研究者がクワインについて議論されていても全く何の問題もないし、それどころか哲学に携わる者として「問題がある」と思える方がおかしいだろう。それは、哲学の議論ではなく単なる小文字の〈政治〉の議論でしかなく、社会学や社会心理学として是非を論じるような話だろう。

ただ、それはそれでいいのだが、リンクされている「講義ノート」は全く同じページにしかページ遷移できないので、「2018ss03 分析と綜合の区別の否定 .pdf)」という間違ったリンクは修正の必要があろう。最後の「)」を削除すればいいだけなのだが。

最後に記事の内容については、あまり興味がないとしか書けないのが気の毒ではある。僕は記事で議論されているような類の「意味論」は、結局のところ認知科学へと回収されてしまうと思うので、哲学として定式化することに専心するよりも、認知科学として分析する場合の方法論や概念の道具立てを哲学として議論する方が有益だと思っている。どう記号化したり詳細に論じようと、しょせんは〈素人認知科学〉の域を出ないし、認知科学の成果を無視してグルグルと哲学の内部だけで展開しても有益ではないと思っている。それこそクワインが論じたように科学の成果を哲学に適用するというフィードバックが欠落している限り、〈面白いパズル〉はたくさんあっても、僕にとっては面白いだけのことにすぎない。そういうただの洗練されたロジックによる読み物が、哲学として学術の世界を変革したり一歩でも前進させるとは信じていない。

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