Scribble at 2021-07-16 18:43:13 Last modified: 2021-07-16 19:08:24

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茂木健一郎@kenichiromogi

全くそのとおりだと思いますし、そのようなご回答をなさったことに敬意を評しますが、尾身さん、おそすぎませんか? 昨年の3月くらいから、そういう姿勢でいらっしゃるべきだったのでは?

「行動制限だけに頼る時代、もう終わり」尾身会長が認識

https://twitter.com/kenichiromogi/status/1415534485953671178

昔からよくわかんないことを言う方だ。それを自称分析哲学者の苫米地某と同じような扱いで「天才ゆえだ」と言ってきた日本の学卒レベルしかいないマスコミの勘違いも、そろそろ反省すべきだと思う。このような人物の発言は、離乳食をママにスプーンで口へ運んでもらうのが好きな〈わかりやすい教〉の人たちに受けが良いし、茂木氏らのような成金リバタリアン、あるいは自分たちが色々な経緯やラッキーで一定の地位や財産を得た後は自由化を促進せよと叫ぶ、梯子外しネオリベといった〈経済的卑怯者〉たちを、どういうわけか自分たちこそ搾取されている側であるにも関わらず熱心に擁護する都会の若者がいて、いつもながら Twitter というのは便利な観察道具だと思うが、しかし或る意味では辟易させられるのも事実だ。

この手の確率や統計に関わるメッセージの出し方の難しさというものは、実はレトリックとかコミュニケーションというテクニックの難しさだけに原因があるというわけではなくて、結局のところ統計とか確率について、いかに自称理系の多くが生半可で浅薄な理解しかしていない計算小僧どもや受験技術者の成れの果てであるかを示していると思う。その頂点が、フィールズ賞やノベール賞といった、もちろん〈現地の尺度では素晴らしい成果に送られてしかるべき賛辞を表したい〉が、しかしたかだかセコイ惑星でいち早く理論や実験結果を打ち立てただけの個体が称賛されるレベルの話でしかないという、哲学的なスケールの尺度では別の評価ができるという事実も、当サイトをご覧になる方であれば留意しておくよう勧めたい。

科学哲学でも、統計や確率の概念にかかわる未熟な定式化とか浅薄な理解から起きる馬鹿げた理屈とか、あるいは多くの人々を死に向かわせたり、逆に死への恐怖を掻き立てて過剰な行動に走らせるものはなんなのかという観点からの考察や議論はあった。日本でも、とりわけ震災や機械学習ブームという幾つかの災害や出来事から統計学(の本を出版する)ブームが今でも続いているようだが、上記のような議論を眺めていると、日本で流通している統計学のデタラメな通俗本や劣悪な学部テキスト、それから何の業績があるかもわからないベンチャー企業のパソコン小僧が書く機械学習の教科書などなどが、いつものようにイナゴさながらに市場を覆うばかりで、そこからの社会科学的なスケールで測定しうる影響とか成果は、ほぼゼロに等しいという有様には、日本のマスコミ・出版業界とクズみたいな執筆者とが繰り広げる文化的マスターベーションの醜悪さばかりが目立つ。そんな本を何億冊と売りさばこうと、多くの人々はいまだに統計的に馬鹿げたことにヒステリーを起こすし、それらを諌める茂木氏らのような成金どものレトリックは、いつまで経っても人を説得できる有効なものへ洗練されていない。要するに、この国の出版業界や報道業界(の一部であろうと望みたい)がやっていることは、社会科学的に厳密な基準で言って「ゼロ」なのだ。あってもなくても、この国は全く変わらないようなことしかやっていない。そして、資源や情報をやりとりする効果がゼロということは、実は同じく社会科学的な観点で言えば、良くも悪くもないどころか悪いことでしかないのだ。

確率に関わる議論に色々な誤解の混入する余地が多いという事実は、科学哲学のプロパーであれば single case probability に関わるパズルとか、あるいはポパーによる "the probability of a universal law turns out to be equal to zero" といった議論くらいはご存知だろう。そして、これらについて(特にこの国では)まともな成果が全く無いという事実もご存知のはずである。「ああ、こういうパズルがあるよね」という、ワインの品評会で口にするようなセリフを吐いては〈消費〉していくのが大多数のプロパーの〈哲学研究〉というものらしい。まったく、日本科学哲学会の正会員である僕自身も含めて恥ずべき実態だと思っている。

それから最後に上記の尾身氏の発言だが、彼は行動制限に代えて何かをやろうと言っているわけではなかろう。行動制限「だけ」に頼る時代ではないとはっきり言ってるわけで、それを、行動制限を止めて別の方法を模索するという、オリンピックを実施する人々にとって有利な変節であるかのように扱うのは、非常に悪質な(「文系」的なセンスを悪用する)ツイートだと思うね。十年以上も前に応用哲学のよくわかんない(そして、結局は何の成果があったのか哲学プロパーですら知らないであろう)会議でまくしたててた頃は面白い人だと思ったが、クオリアなんていう概念の混乱(これを愛好するのは、恐らく肉体フェチと区別がつかない未熟なレベルの現象学者だけだろう)を社会に撒き散らしたり、NHK で大したこと無い企業人や芸能人や職人の多くが従事するブラック労働を賛美しては脱税したり(最初、「僕は理系なんで税務申告は知らなかった」などと平気で言ってたような気がする)、はっきり言って大した人物でもなかった。

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