Scribble at 2021-07-06 13:22:14 Last modified: 2021-07-06 17:16:40
Constantly performing without ever practising is how amateurs approach things in other fields. Amateur golfers never drill, they just play. And being an amateur is fine. Painting for a hobby is fine.
そういや、神戸大の博士課程に行く話を竹尾先生にしたとき、「アマチュアの趣味に留めておくのも一つの選択だ」と冷静に言われたことがある。もちろん、たいていの場合には進学すると標準的な意味での企業就職は難しくなるし、かといって大学に籍を置くのはもっと難しいからだ。竹尾先生が大学の研究職つまりはプロパーでなければ何かに欠けるといった見識を持たれていたのかどうかは知らないが、少なくともプロフェッショナルとしての職責に見合った、何らかの立場なり地位をアマチュアが欠いていると見做していたような気はする。もちろん、世代ということもあるだろうし、それはそれでよい。
ただ、アマチュアとして暇潰しに『存在と時間』や『ことばと対象』を紐解いては、ブログに適当なコメントを書く余生などと言われても、それはそれで無害ではあるし、結局のところ哲学とは private なところからきて private なところへ立ち返る private な志向をもつものだろうから、大学に籍を置いていなくとも本質的に何かが違えるわけでもなかろう。他人との議論や他人が書いたものを読むという social なり public な営みは、哲学にとって歴史的な経緯をもつだけの非本質的で便利なだけの習慣みたいなものだろうと思う。もちろん、それによって「堅実さ」だとか「誠実さ」が担保されるのかもしれないとは思うのだが、そういう価値観が哲学することにとって何を於いても必須であり目的であろうかと言えば、かなり疑わしい。
なぜなら、結局のところ philosophy と呼ばれる営みは人が独りで生きてゆく経過のなかにも成立しうることである筈だからだ。独りで生きて、外界と向かい合う中で、いったい〈誰に対する誠実さ〉が必要だというのか。僕には、「自分自身に対する誠実さ」という表現は、しょせん自らに向かってではなく、わざわざ他人に聞こえるように言うことでしか効果のない、言葉の彩としか思えない。もちろん、だからといって不要だと言っているわけでもなく、現今の凡庸な人間が、このクソみたいな世界で哲学するには、寄り添って成果を出し合う他にないのかもしれない(そうでもないと自負できるくらいの人が、キチガイではなく日本にもいればと思うがね)。