Scribble at 2021-06-21 11:17:23 Last modified: unmodified

初期の販売実績で何らかのインパクトを受けた学生などの読者が、その後に自分自身や他人に対して何らかの影響を与えていれば、それ以上の多くの人々が読み続けなくてもいいという割り切りはあるのかもしれない。

2021年06月18日 に初出の投稿

もう少し続ける。論点を少し簡単にして、品切れや絶版となった本は無視して良いのかと考えてみよう。もちろん、表面的な答えであれば否定するのは簡単だ。しかし、実務として、どうやって原本なり複写を手に入れるのか(コピーしてもらった箇所が、本当にその本からの複写なのかをどうやって確かめるのか。奥付を一緒にコピーしてもらうのは、単に書誌情報を得るためではない)、そもそも自分の知らないうちに品切れや絶版になった参考文献が存在しているのかどうかをどうやって知るのかと問うならば、即座に答えるのが難しいかもしれない。少なくとも素人や大学生にとっては、難しいと思う。

後者の問いについては、もちろん〈自分にとって参考になるかどうか〉が当人にしか判断できない事柄である以上、人が参照できる書籍の数や時間には限りがあるのだから、幾らでも判断を保留できる。そして、多くのプロパーが論文を書かない(本来は「書けない」と言うべきだが)理由として、こうしたオカルト同然の〈全ての参考文献〉という概念を論理的に可能というだけで捏造しているのも事実なのだろう。そして、手持ちの参考文献だけでおおむね適切だとしても、〈最終的な答え〉だの〈充分に考え抜いた思索〉だのという、古典の著者をロール・モデルとして思索の到達点を設定し(彼らの到達点には永久に追いつけないという、一見すると謙虚だが実際には成果を発表しないための言い訳でしかない前提の上で)、いつまでもたどり着けないと悩んでいれば、それなりの体裁になるというわけだ。もちろん、単純な進歩史観に立って、既存の文献と自らの思考だけで古典の成果を〈乗り越えられる〉だのと中二病みたいなことを言いたいわけではない。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook