Scribble at 2021-06-18 12:04:25 Last modified: 2021-06-18 12:38:27

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外在主義への反論!アメリカ分析哲学界の泰斗チザムによるTheory of Knowledgeの第3版。伝統的な知識理論を基礎付け主義と内在主義の見地から擁護し、外在主義への反論を試みる。訳者による解説・文献紹介付き。

知識の理論(第3版、世界思想社、2003)

上記の書誌情報は、上枝美典氏が訳出されたチザムの著作についての事項である。ただ、話の趣旨はこの本を紹介することにはない(よって、吉田夏彦氏が1970年に原著の初版から訳出された本を取り上げても話の主旨は同じである)。ここでは、雑ではあるが一つの想像として、こういった著作物を出版するという営みの「影響」が、どのていどの範囲に及ぶのかを考えようというのが本来の趣旨である。

本書は原著が第3版としては1989年に出版されていて、翻訳書は上記のとおり2003年に出ている。そして、現在は書店で手に入るとしても、恐らく在庫を(皮肉にも売れ残っているおかげで)抱えている都市部の大型書店だけだろうし、アマゾンでは古本としてしか手に入らない。すると、いま大学の哲学科に入学したり、あるいは大学へ進むまでもなく中学や高校で何かきっかけがあって「知識」について関心をもった人々が本書を手に取るチャンスがどれくらいあるのだろうか。

もちろん大学生であれば、在籍している大学の附属図書館で本書が見つかる可能性は高いだろう。とは言え、CiNii(サィニィ)が全ての国内の大学図書館に所蔵されている書物をデータベースとしてカバーしていると仮定して、本書を検索してみると、2021年6月の本日という時点で145件しかヒットしない。日本図書館協会の調べでは、2020年の大学図書館の数は1,439館とあるから、早い話が10校に1校の附属図書館にしか『知識の理論』は所蔵していないわけで、哲学科は無論のこと文学部を構えていない大学の附属図書館には置いていない可能性が高い(ただし教養課程で哲学を教えている教員が附属図書館に購入を勧めて、たまたま哲学科や文学部のない大学にも哲学の本が置いてあることはある。僕が学部時代に在籍していた大阪経済法科大学は法学部と経済学部だけしかなかったが、附属図書館に Richard Bevan Braithwaite の Scientific Explanation があった。これは神戸大の附属図書館にすら置いてなかったものだ)。大学生でもこのような状況ではあるから、高校生が高校の図書館で『知識の理論』を見つけたり、請求して購入してもらえる可能性は著しく低いと言ってよい。

そして、大学生だろうと九州の郵便局員だろうと、そもそも〈このような本が出版されているという事実〉をどうやって知るのかという問題がある。仮に郵便局員が何らかの事情で認識論に関心をもったとして(いけない理由があろうか)、どういう本が出版されているのかを探そうとしたり、探した本の中でどれを読むべきかを判断する基準が知りたいと思うときに、何が参考になるのか。元四国の役人やなんとか茶が書いたカタログ的な通俗本だろうか。あるいは早稲田の「有力教授」のもとで仏教や哲学のつまみ食いを大量に公開していた人物とか、古典の虎の巻を書いて政府のなんとか委員になった教育学者のブログ記事だろうか。経緯はどうでもいいが、『知識の理論』という著作を読もうとするきっかけや理由を与えるには、現行のリソースでは貧弱すぎるし、厳密かつ詳細な情報が不足しているせいで、はっきり言えば「文化的な下方圧力」(低いレベルのままで素人を「お腹いっぱい」にさせてしまう)にしかなっていないのが、国内の哲学に関するアウトリーチの実態だ。元アイドルの「哲学者」や成瀬君らが展開するような素人向けのイベントを何億回と続けようと、そこから先がなければ啓蒙の価値はない。多くのプロパーは、「そこから先」はちゃんとあると思い込んでいるのかもしれないが、大学へ進学することや洋書を読むといったアカデミックな筋書きが the only game in town だというなら、それはとんでもない誤解である。

こうした、出版物にかかわる情報なり知識の伝播とか影響については、社会学だろうと情報学(情報科学ではなく、図書館学に近い分野のあれ)だろうと、僕の知る限り大規模または精緻な業績というものが「皆無」と言ってよい状態だと思う。『構造と力』が何万部売れました、暇と退屈がどうした、お勉強がどうのという雑書が何冊売れましたとか、そういう広告代理店的な統計ていどなら、取次が開示するデータがもらえる利害関係の企業に勤めてさえいれば馬鹿でも調べられる話である。しかし、あれほど何年も前からミームだブロゴスフェアだと騒いでいながら、情報や知識や偏見などの network theory として国内では殆ど目立った業績がない(もちろん、国内のバカどもがこぞって称賛した、あの懐かしき「なめらかな社会」と何とかという著作にも著者の専門である複雑系ネットワーク理論は導入されていたものの、旧来からの複雑系の著作と同じで「世の中の〈複雑な〉現象を式で現してみました」という以上の成果や帰結がない)。

具体的な論点としては、『知識の理論』のような著作物は毎年のように大学の講義でテキストとして採用されるような定番の書物ではないし、書店が常に在庫として抱えるような古典でもないので、出版業界の実務という観点で言えば発行した初版第一刷を一定の期間で売り切ることが第一の目標となる。よって、ビジネスライクな言い方をすれば、そこに書かれている内容が誰にどう読まれて何の影響があるかは出版社の関知するところではないし、出版物の影響という顛末に出版社が責任など取れる筈もなく取るべきでもない(しかし、何をどう出版するかを出版社は決められるのだから、出版の事実については責任がある。よって、僕はクズの構成作家が書いた本を出版している幻冬舎はクズ出版社だと思うが、彼らのようなクズどもが出版したゴシップ本やコピペ日本史本などを読んでヘイトやデタラメを撒き散らす Twitter 上のクズどもに対する責任はないと思う。もちろん、両者の法的・人道的な責任に比べたら、両者のあいだに影響関係がどうあろうとなかろうと社会科学的にはカスみたいな事実だが)。

すると、出版社はともかくとして著者は売り切った書籍の影響がどのように伝播することを望んだり想定しうるのだろうか(もちろん哲学のプロパーが、社会科学として妥当な水準の想定をするどころか、そもそも想定そのものをしていなくても構わないわけだが)。出版してから10年くらいで初版を売り切り、それを読んだ人々が他人に話題として展開したり、あるいは学生として卒論のテーマに取り上げたり参考文献として利用するというシーンは色々と考えられる。しかし、いずれにしても売り切るか売れなくなってしまえば初期のインパクトは明らかに低下するわけであり、実際に2021年6月の時点で『知識の理論』を図書館や書店あるいはアマゾンから購入して手に取り、読んでいる人が日本に何人いるのかという気がする。

それでも、初期の販売実績で何らかのインパクトを受けた学生などの読者が、その後に自分自身や他人に対して何らかの影響を与えていれば、それ以上の多くの人々が読み続けなくてもいいという割り切りはあるのかもしれない。チザムの本が、アリストテレスの『形而上学』やハイデガーの『存在と時間』と同じだけ多くの人々によって長年に渡って読まれるべき価値をもっているというならともかく、いくら翻訳した当事者でも、『知識の理論』について、そこまでの評価はしていないだろう。ただ、古典さえ読んでいればそれでいいというわけでもないのは明らかであろう。「多様性」という流行語を持ち出すまでもないが、異なる脈絡や意図で書かれた色々な本を読むことによって、誤読や誤解や曲解や牽強付会というリスクもあるにはあるが、さまざまな読書体験から導き出される成果に示される新しい発想に期待する方が、一つの古典を延々といじくり回し続ける明らかな陋習に比べて発展性が高いのは歴史的な事実と言ってもいい(それは、実際に新約聖書を読んでいる身として切実に感じる)。

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