Scribble at 2021-06-18 09:37:08 Last modified: unmodified

これは決してお勧めはしないが、現実にパソコンの購入費用と電気代、通信費だけを捻出できれば、既に一生を費やしても読みきれないほどの著作物は無料で手に入る。恐らく Scribd のようなサービスが海賊版の PDF をダウンロードできるサービスとして持て囃されていた10年前の時点でも言えたことなので、それから続々と世界中で増えたオープン・アクセスの論文や Creative Commons の著作物など法的に問題のない無償のリソースを含めると、既に退屈なフレーズとなっている a flood of information は既に〈環境〉とか〈所与〉と呼ぶべきものになっていると言える。もはや毎日のように量産されるデータについて、知識社会学やテクノロジーなり産業の分析といった観点からセンチメンタルな批評をしている段階は終わったと思う(もちろん、だからといって単純な最適化の話ばかりしている日経新聞的に愚かな段階も終わっているわけだが)。

少し調べれば分かるように、パブリック・ドメインの古典的な著作物は大半がデジタル・データとして多くのサイトで提供されている。Wikisource や Project Gutenberg や Internet Archive といった主要なアーカイブ・サービスだけでも(その殆どが英語の著作物であるという重大な偏りはあるが)、たぶん読むことだけに時間を費やせる人でもない限りは、とっくに個人で〈捌ける〉分量を超えている。旧制高校時代に岩波文庫を読破したといった、愚にもつかない英雄譚を何度も繰り返す東アジアの辺境国家の「自称エリート」たちが何を言っていようと、彼らのような雑読家・乱読家ですら捌き切れないであろう。いや、彼らが仮に岩波文庫と同じく全てのオープン・アクセスの古典を捌き切れたとしても、もともとが馬鹿だと再び太平洋戦争のような愚行を繰り返すわけである。(僕が、読書量を学術的な業績の必要条件と見做す人々を「サヴァン症候群ワナビー」と呼んでいるのは、そういう人々がサヴァン症候群の患者のように大量の書物を記憶することを学術研究としての理想的な条件だと思い込み、そういう与件の上で初めて〈正しい思想〉や〈妥当な哲学〉が出力されるという、哲学的にも脳神経科学の理屈から言っても根本的に間違った子供のような願望を抱いているという愚かさや未熟さゆえである。こうした天才願望や超人願望は通俗的な本やテレビ番組としてありふれているが、はっきり言って映画の見過ぎや漫画の読みすぎであり、皮肉な話だがそういう手合いには「もっと勉強しろ」と言いたい。)

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