Scribble at 2021-06-17 10:47:40 Last modified: unmodified
僕には印象深い事実として、以前にビル・エヴァンスの作品(コンピレーションは除く)を YouTube で丁寧に探してみたところ、1980年の9月というから薬物で亡くなる直前にリリースされた "The Very Last Performance At Fat Tuesday" というアルバムを除いては全てアップロードされていた。ちなみに、"Consecration: The Final Recordings Part 2" といった別のアルバムを最終として "The Very Last Performance At Fat Tuesday" を数え入れていない場合もある(たとえば Wikipedia の日本語版と英語版とではリストの内容が違っている)。しかし、そういうオタク的な些事はここで述べる事の本質ではない。
要するに、よく知られた音楽家の作品であれば殆どが無料で聴けるという事実が重要だ。もちろん digital divide を無視して「みんな良かったね」などと気楽に楽観主義やネオリベ(そして、或る意味では皮肉にもネオリベとは対極にあるサイバー・コミュニズムにも通じるスタンス)の議論をしたいわけではなく、無料で聴けるからといって「誰でも聴ける」と言っているわけではないし、「誰でもこうして(聴こうと思えば)聴けるべきだ」と言っているわけでもない。とは言え、一定の政治的、経済的、あるいは心理的に安定した状況にあれば、多くの人がビル・エヴァンスの作品を無料で聴ける。たぶん、同じように調べていけば他の人々の作品も大半が聴けるようになっていることだろう(細川たかしの歌が全て聴けるかどうかは知らないが)。
このような状況は、過去の時代と比べて、一部の金持ちや特権階級の人々だけではなく、更に経済的・政治的な権力なり地位のない人々でも多くの(本来ならアクセスするために、少なくとも一定のコストがかかる)リソースへアクセスできる〈良い時代〉になったと言えるのだろうか。そもそも僕にしてから、そういう時代の恩恵を被っている一人でもあり、おそらくは過去の時代に比べて格段に多くの人々が数多くの(願わくは)良質な文化資産に触れる機会を得るようになった、〈良い時代〉だと言ってよいだろう。理由は幾つか考えられるが、もちろん僕自身にとって有利で得だからという個人的な理由は差し引いても、さまざまな事情なり意図なり経験をもつ多くの人々が、さまざまな文化資産へ触れる機会をもつことにより、単純な想定ではあるが「クロスオーバー」と呼ばれる事態が生まれて、良いにしろ悪いにしろ(どのみち、それを決めるのは我々ではない)〈新しい結果〉が生じる見込みは高くなる。
明治時代に山形の農家で生まれ育った少年が『精神現象学』の原書を手にしたりクラシック音楽のコンサート聴く機会は殆どなかったに違いない(もちろん山形の農家をバカにしているわけではなく、いまの僕らが同じ文化資産へアクセスできる手軽さに比べたら、当時の東京にいた華族の子女ですら山形の農家の少年と大して事情は変わらないと言える)。よって、いまでは岩手の山奥でもアフリカの砂漠地帯でもスマートフォンでクラシック音楽のコンサートを聴けるわけであるから、或る文化資産の影響は一部の恵まれた境遇にある人々だけにとどまらず、色々な境遇の人々にも及ぶようになっている。そうは言っても、多様性を盲信する人々や草の根信者のように、恵まれない境遇の人々から将来の「天才」が生まれるだの、これからは一部の特権的な境遇の人々だけにとどまらない「みんなの哲学」やら「みんなのモダン・ジャズ」だのと気楽に倒錯した思考を垂れ流すつもりはない。無能は、金持ちだろうと貧乏人だろうと、当人が自覚したり改善する努力をしない限り、死ぬまで無能でしかないからだ。