Scribble at 2021-06-04 09:14:58 Last modified: unmodified

「メタ哲学」と言っても幾つかの脈絡があって、恐らく〈哲学的〉メタ哲学という脈絡に加えて、〈社会学的〉メタ哲学とか〈経済的〉メタ哲学とか、要するにクワインの主張した科学と哲学の連続性(たぶん正確には「不連続性の否定」と言ったほうがいい)という議論からして、このような脈絡は(いちおう「異なる」とされる)色々な学術研究分野の観点を使って導入できる。また、そういう観点だけでなく、実務的な脈絡から議論できるメタ哲学もあろう。たとえば、どうして古典を読む必要があるのかといった話題は、思想史なり比較思想史という脈絡だけではなく、哲学の〈学習〉という脈絡だとか、コミュニティにおいて古典の知識を弁えていることが justification としてだけでなく、何らかの certification として扱われる慣習(の正当化)という脈絡でも議論できる。

はっきり言って、世界中の哲学教員は〈教員〉としての実務に関して両極端な態度をとっている。一方では、カントばりに「哲学を教えることはできない」だのと言っては延々と演習で読書を続ける。カントは「哲学スルコトは教えられる(Not to learn philosophy, but rather how to philosophize; all else is just imitation)」と言ったはずだったが、それも放棄しているわけだ(あるいは昔ながらの徒弟制のように、背中を見て学んだり盗み取るよう期待するとか?)。他方で、幼児の質問を〈哲学的〉と断定しては過大評価も甚だしい「哲学教育」をキャンペーンとして展開している。僕に言わせれば、これは〈問う〉という認知的な所作を繰り返して一定の所見なり偏見を醸成するプロセス、つまりは発生論として最初の段階にある〈反応〉を知識や学術の基礎とか basic or big questions と混同しているにすぎない。トークンとしては同じだが、実際に子供(のような人物)と接してみれば分かるように、子供の質問は簡単に対処できてしまう。

「どうして宇宙はあるの?」

「神様がおつくりになったからだよ。」

「どうして神様はいるの?」

「それは誰にもわからない。でも、だから凄いことなんだ。わからないことがあるってことは、これから幾らでも知ったり考えたり勉強できるからね。もやもやしていたことが晴れてくるのを感じるのは、素晴らしいことじゃないか。最初から何でも知ってて、何もすることがなくなったら、つまらないだろ? そういう意味では、神様は気の毒だよ。何でも知ってて何でもできるんだから。」

とかなんとか話していれば、〈哲学的〉な問いをぶつけてくる将来の東大教授など、哲学者でなくともまともな大人であれば簡単にあしらえる。

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