Scribble at 2021-05-11 07:19:23 Last modified: 2021-05-19 13:45:49

現在は岩波文化人の重鎮として(出版業界や学閥における小文字の政治においては影響力があるのかもしれないが)思想というスケールではインパクトがゼロという、かつてはイェール大学に行って分析哲学の真似事を教わってきた文芸評論家がいるわけだよ。柄谷行人とかいう。彼がかつて「カルスタ」と嘲笑したように、日本では既存の研究分野を組み合わせたような名前の分野とかいわゆる学際的とされる研究分野を、十把一絡げに何か胡散臭い分野と見做す傾向があって(最初は「キメラ扱いする傾向があって」と書いていたが、キメラが〈悪いもの〉だと仮定する正当な根拠はないし、ここから混血とか純血とかいう差別的な思考に陥りやすいのは事実だろう)、物理学とか考古学とか経済学といった、厳密な研究ではどれもこれもたかだが近代以降でしか研究アプローチの正統性を語れないような分野を、まるで〈自然発生的に〉確立された分野であるかのように思い込む人が非常に多い。まるで我々の知識とか技巧とか理解とか生活の分類方法なり、あるいは何事かについて関心を抱いたり問いかける脈絡というものが最初から決まっていたかのような話である。

もちろん哲学のプロパーでもこれと同等の未熟な者がたくさんいて、ヒトの認知能力がもつ制約とか条件から自動的に「現象学」とか「なんとか実在論」のようなスタイルが不可避的に分裂してきたという、壮大で根本的に愚かな哲学史の理解を抱え込んでしまっているような人がいる。当サイトの About ページでも「哲学に正常も異常もない」と書いているように、いま現に色々と提唱されているアプローチに(もちろん僕の規準または基準を満たすという条件付きだが)良いも悪いもないし、健全も不健全もなく、純粋も不純もないと思っているが、それらを取り扱うヒトには〈中間媒体〉としての出来不出来があると思う。

ていうかさ、ごくごく普通に出版物とか言動を眺めていれば、柄谷行人という人物のやってきたことなんて(彼が示唆するような意味での)「カルスタ」そのままじゃん、しかもマル経を下敷きにものを考えてる点まで同じで。同族嫌悪なのかね。

  1. もっと新しいノート <<
  2. >> もっと古いノート

冒頭に戻る


※ 以下の SNS 共有ボタンは JavaScript を使っておらず、ボタンを押すまでは SNS サイトと全く通信しません。

Twitter Facebook