Scribble at 2021-04-27 17:40:56 Last modified: 2021-04-27 17:47:11

A growing chorus of scientists and philosophers argue that free will does not exist. Could they be right?

The clockwork universe: is free will an illusion?

宗教という事情があってのことだろうとは思うが、欧米の新聞やテレビのサイトでは定期的にこういう話題が論説として掲げられる。他方、「学校に新聞を」などと愚劣なキャンペーンを続けていようと、その品質が碌でもない天声人語のレベルから何も変わっていない我が国の報道・出版の実情を鑑みるに、受験のノウハウはともかく知的風土の底上げは今後も期待できない。

本来、自由意志のような話題に限らず色々な学術分野の話題も、今日の晩ごはんやら明日の草野球試合と連続しており無関係ではないのだが、この国では「民主的」と称してプロパーが(もっと「民主的」になるはずだった)社会的な権威の源泉を掌握してしまい、自由意志は特定の媒体で特定の人々が議論する話題だと固定してしまった。そして、われわれ自身もそれを容認し、せいぜい NHK の特集などでしかめ面をした人々が語ったり悩んで見せるパフォーマンスを放映しておけばいいものとされてきたわけである。

本来は哲学どころか学問や知識の探求自体に「プロ」も「在野」もない筈が、手続き的な正統性と特定の制度や機関やコミュニティとが不可分の関係を作ってしまい、行政やマスコミもそういう仕組を補強するようなことしかやってこなかった。その方が公衆を政策や報道や広告で御しやすいからであり、このような仕組みに出版社や物書きも長らく実質的に加担してきたと言える。凡俗と学者に断絶を作っておくと、一方から他方への憧憬なりコンプレックスが強化されたり維持されるので、分かりもしない専門書や愚劣な通俗本がギャップを埋めてくれる慰みとして売れるという構図を維持できるからだ。

よって、僕が MD などでこの国を「東アジアの文化的辺境地帯」と呼んでいるのは、侮蔑でも何でも無く、行政と学術コミュニティと出版業界が維持してきた〈文化的な下方圧力〉を、ただの文化人類学的な観点から分析した結論にすぎない。よって、タイポグラフィを実務の一つとしているデザイナーの末席にいる人間が言うのは悲しいことだが、どれだけ美しい装丁の本をデザインしたり、高度な機能を持つ電子書籍リーダを開発しようと、中身は安物のスーパーで売っている惣菜みたいなものである。見た目はマシかもしれないが、上げ底で、しかも賞味期限が切れた素材ばかりを使っている。どちらかと言えば、中身だけで勝負している漫画の方が、安い紙に印刷されていようと世界規模では学術書よりも高く評価されているのは、当然だろうと思う。

哲学的に言って些末な話はともかく(日本の学問が衰退しようと、結局は地域や時代に関係なく、どこかで誰かが〈哲学すること〉にとってはどうでもいいことだ。それどころか、たとえ日本人と呼ばれる民族が消滅したところで、宇宙論的なスケールの視野をもつ探求や哲学においては超のつく些事だろう)、上記の記事が冒頭から少し挑戦的に書いているように、このところ自然科学は言うに及ばず哲学においても自由意志は一種の錯覚であるという議論が堅調と言える。もちろん、僕も脳神経科学の仕組みと無関係な〈存在〉としてヒトの意志を据えるような議論に見込みはないと思う。しかし、"mind-body problem" が特定の文化的・宗教的な概念を反映したものであろうと、それが問題にしている〈構図〉を脳神経科学の説明で消し去ることはできないだろう。

これまでに公表されている議論のパターンとしては、自由意志とはこれこれの脳の働きを指しており、ヒトが何事かを〈自らの - 意志の - 自由な - 選択〉だと脳で処理できるのは、逆に言えば脳でこれこれの仕組みが(寧ろ我々の〈自由な - 意志〉によらず〈機械的に〉)適切に働くからなのだ、というわけである。

しかし、僕はだからといって "illusionism" には与さない。論理的には supervenience を支持するかもしれないが、だからといって basic (or physical) properties 以外を錯覚、あるいは僕らの認知的な活動なり生活において〈思考したり語るべき必要がない筈の必要悪〉だとは思わない。ヒトという生物は、特定の生理的な条件とか文化的・歴史的な脈絡(その是非を問うても良いわけだが)において、自らの認知能力の範囲で物事を理解したり知ったり納得するものである。或る現象を厳密に何らかの方程式で記述できるからといって、ヒトは〈方程式的に理解する〉ということはできない。そもそも2の平方根という概念を考えてみるだけでも分かるとおり、我々が〈2の平方根〉を理解するということは、その数を正確に記述できることとは別なのである(そして、〈2の平方根〉を正確に一つの数として記述できる生物は存在しない)。

よって、記事では道徳や倫理という観点から「責任」を持ち出しているが、何も自由意志という概念を擁護するための脈絡が法律や倫理だけにしか残されていないというわけでもないのだ。僕らがどのような議論をして「そうすることを決めた(選んだ、望んだ、等々)」と言っても、それは〈そうする運命にあった〉のだと言われれば終わってしまうという発想こそが、僕に言わせれば思い込みにすぎない。ここには、仕組みや原理を知っていることと、具体的な機序や発生の過程を記述したり説明できることとに大きな違いがあるという、それこそ精密な科学としての知見が欠けていると思う。物理主義を口にするだけなら、物理を学び始めた中学生でも簡単なのだ。しかし、具体的にどういう作用なりプロセスによって起きたのかを正確に記述したり説明できる者は(ノベール賞を受けた人々も含めて)いないのである。そして、仮に仕組みや原理を知っていて、更にこれまで起きた現象や結果の正確な説明ができるとしても、これから何が起きるかを正確に予測できるものもいないだろう。

よって、僕のサポートしている観点は contextualism ということになり、往々にしてこれは脈絡に応じて議論の妥当性(の規準)を入れ替えるご都合主義とか相対主義だとの非難を受けてきた。しかし、僕が思うには、物理的な脈絡の枠内だけで語るべきだという制約の方がヒトという生物の認知能力を無視したり軽視しており、いわば〈自然主義のポピュリズム〉とすら言える。われわれがヒトとして何事かを理解したり考えたり納得するという捨て去ることができない脈絡がある以上、ギャラン・ストローソンが述べた言葉とされるように、“strawberries would still taste just as good”と感じたり思う事実は否定のしようがないし、それを口に出すことの意義も否定できないだろう。

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