Scribble at 2021-04-23 15:22:55 Last modified: 2021-04-23 15:32:34

1710年に、バークレー僧正は『人知原理論』の序文でこう述べた。「概して私は次のように考えたい気がする。つまり、これまで哲学者たちの気晴らしであったり知識への真の道を塞いできたこれらの困難は、全てではないにしてもその多くの部分が我々自身の責任だということである。要するに、我々はまずほこりを巻き上げ、そうしてから、見えないと不平を言っているようなものなのである。」

バークレー僧正のこれらの所見は、私には1710年当時と同様に今でも正しいように見える。それどころか実際には、状況は今の方が幾らか悪くなっている。それは一つには、今日の哲学者たちは知識への真の道を塞ぐ諸困難で気晴らしをすることが殆どないからである。哲学者はこうした困難をもてあそぶべきなのである。なぜなら、哲学はなかんずく意味を成すものの限界、つまり意味と無意味の境界という、ユーモアの本当の材料を扱うからだ。そこで、ルゥイス・キャロルの『鏡の国のアリス』から例を取ってみよう。

「誰がお前を追い越したのだ」と、もっとたくさんの干し草を求めて使者に手を差し出しながら、王様は続けました。

「誰も」と使者は言いました。

すると、「おう、そうじゃ」と王様は答えて、「この若いご婦人も彼を見たそうじゃ。それゆえ、もちろん『誰も』はお前より遅く歩いていたのじゃ(普通に解釈すると「誰もお前より遅く歩いていない」となるので、使者より速い誰かがいたように聞こえる)」と言ったのです。

使者はムッとして、「私は最善を尽くしました」と応じました。「私より速く歩く者は誰も」。

すると、「そうじゃ、彼には無理じゃろうて」と王様は答えました。「さもなければ、彼がここへ真っ先に来ていたろう」。

哲学者にとって必要なのは、このお話がおかしい訳を理解することであり、「誰も」を何らかの存在であるかのように語ることが無意味である訳を理解することである。もちろんその理由は、「誰も」という語は或る存在の名前であるように見えるのだが、実際には何の名前でもないということである。つまりこれは、自分より速く歩いたり遅く歩いたりした者がいなかったということを使者が言うための一つのやり方なのである。ところで、これは誰でもできるような取るに足らない哲学的分析の一端であるが、これからみるように、この論文にはルゥイス・キャロルが書いたようなナンセンスよりももっと深刻な(そしてもっとミスリーディングな)ナンセンスがあり、それを暴いたり説明するためにはもっと多くの分析が必要なのである。

とは言え、ナンセンスを暴くためには、我々はまずもってそれを探さねばならず、我々はナンセンスを嗅ぎ分ける嗅覚を必要とする。そして、哲学そのものはナンセンスであるというヴィトゲンシュタインの命題についてラムジーが述べたように、「我々はそれがナンセンスであるということを深刻に受け取るべきであり、ヴィトゲンシュタインがしているように、それが重要なナンセンスであるかのごとく主張すべきではない」。いま私は、哲学はナンセンスという事実を深刻に受け取ったり、そしてそれがナンセンスである理由を言ったりすることは含むと思っているが、哲学がナンセンスであるとは思っていない。だがそのためには、「誰も」のようなジョークをふさわしいやりかたで楽しむべきなのであり、またそれらのジョークを深刻に受け止めることと、それらがあたかも重大であるかのように言うこととを分けるべきなのである。とは言っても、全ての哲学者がふさわしい仕方で楽しんでいるわけではない。中には、よい哲学が必要とする、ユーモアをまじめに受け止めるセンスとそれに関してナンセンスを嗅ぎ分ける嗅覚とをもっていない哲学者がいるのではないだろうか。そしてこのことは哲学をやる者にとっての深刻な欠点なのである。なぜなら、ナンセンスを嗅ぎ分ける嗅覚がなければ、哲学者たちはナンセンスそのものを語ってしまうという本当の危険を冒してしまうのであり、そして(ルゥイス・キャロルの場合とは違って)ナンセンスそのものを説いたり、それが重大なナンセンスであるということを説いてしまうような、本当の危険を冒してしまうからである。

もし哲学が他の哲学者たちだけによって読まれたり判断されているなら、数学が他の数学者たちだけによって読まれたり判断されている場合のように、このような危険はそれほど問題にならないであろう。このような場合、他の数学者たちは彼らの同僚がいつナンセンスを語っているかを、全体として言うことができるからである。だが、たぶんそうあるべきだと認めたにしても、実際には哲学ではそうなっていない。なぜなら、実際には哲学は数学に負けず劣らず観客の少ないスポーツだからである。このことで私が意味しているのは、ちょうど数学についてあれこれ判断するためにはあなたが数学者でなければならないように、哲学についてあれこれ判断するためにはあなたが哲学者でなければならないということであり、これとは違って、例えば詩についてあれこれ判断するためにあなたが詩人である必要はない、ということなのである。もちろん哲学も数学と同様に、哲学をあれこれ判断しようとは思わず、ちょうど物理学者が数学を使うように、寧ろ哲学を信じ込んだり利用したいと望んでいる部外者たちによって読まれたりする。だが、多くのそうした部外者たちは、哲学を物理学が数学を使うようにして読んでいるわけではない。概して、彼らは宗教に対する或る種の世俗的な代替物を与えるよう哲学に求めているのである。あるいは、彼らは自分たちのお気に入りの哲学者を彼らの導師にしたがっているのである。この弟子たちは、彼らの導師がユーモアのセンスをもつことだけはごめんだと考える。それは第一に導師が彼ら弟子たちを魅了する権威ある態度にとって有害なものである。したがって、この哲学における導師が重大そうに聞こえるナンセンスを話してほこりを立てるときに、彼ら弟子たちは見えないと文句を言うどころか、みな差し出された見解の謎めいた不明瞭さでもって、さらに感銘を受けてしまう。哲学においては、それゆえ、宗教や医学と同じく、だまされやすい一般人はしばしは神秘を売り物にする連中に多くの名声や富を与えてしまうのである。

ではいったい、このことは〈分析〉哲学と何の関係があるのだろうか? まあ、バークリーの比喩を使うなら、哲学的な分析は、私が先に描いた取るに足らない分析ですら或る種の知的なスプリンクラーなのであり、その機能は、この世界に関する我々の見方を曇らせる概念的なほこりを抑えることなのである。それは事実、哲学的分析の主要な目的の一つであり、「誰も」をめぐるルゥイス・キャロルのちょっとした不可解のような、ナンセンスを生み出すまがい物の神秘を見抜いたり追い払うことによって、この世界の本当の謎がもっとはっきりと理解できるようになるのであり、またそうすることで、こう望みたいものだが、この世界の本当の謎をもっとよく認識し理解できるようになるのである。

この意味で、よい哲学というものは常に分析的であった。分析は学説の問題であるよりも寧ろ手法の問題であり、このことは現代の分析哲学者たちと比べても劣らず、プラトン、アリストテレス、アクィナス、ライプニッツ、ヒューム、カント、そしてミルといった哲学者たちにもはっきりと見て取れる。もし分析哲学と呼ばれるものが特徴づけられるとすれば、それは分析的な手法を用いるということに求められるだけではなく、そうした手法を発展させたり評価することにはっきりと関わっているということにも求められる。もちろん、分析哲学は分析の手法そのものを目的としているわけではなく、それを哲学的な理解のための手段として発展させたり評価しているのである。さりとて、分析という手法は哲学的な理解のための唯一の手段だというわけでもない。なぜなら、分析する者はいつも分析するために分析することに使う以外の素材を必要とするからである。

Analytic Philosophy and the Self (David Hugh Mellor)

以上の文章は、確かデイヴィッド・ヒュー・メラーの「分析哲学と自我」という論説の翻訳だと思うのだが、どういうわけか PhilPapers で検索しても出てこない。そもそも、どういう経緯で訳したのだろう。神戸大で I さんと一緒に Hare などを読んでいるときにテキストとして使ったのかもしれないが、翻訳つまり訳文をいちいち作る必要はない筈だ。博士課程の演習は大学や講座によって色々あると思うのだが、森先生の演習では〈良い翻訳文を作る〉よりも論説の主張について議論することが重要だったので、準備さえしておけばいい。そもそも演習で出席者の各人に訳させるのは、論旨を誤解していないかどうかを確認するためであって、訳文を持ち寄って突き合わせることが目的ではないからだ。

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