Scribble at 2021-04-18 11:52:20 Last modified: unmodified

漠然とした感想だが、「科学哲学」という分野あるいは話題に興味をもったという人の中には、自然科学を学んでいるあいだに哲学へ関心をもつという人もいるし(関大時代の先輩がそうだった)、哲学を学ぶあいだに特定の自然科学なり科学について関心をもつ人もいるし、あるいは僕のように考古学を勉強しているときに恩師から自然科学や人文・社会科学の区別なしに勉強することを勧められたという経緯で色々な分野(哲学も含めて)を雑多に学んでいたという人もいるだろう。また、学術的な経緯というよりも「パラダイム」とか「疑似科学」のような、科学哲学に関連する話題から興味をもったという人もいる筈であり、「科学哲学」という名称を使っているからといって、科学から「入った」とか哲学から「入った」という表現が科学哲学を学ぶようになる規定のコースであるかのような思い込みは慎むべきである。こういう思い込みがあると、酒場の下らない会話として、科学から入った人は哲学の素養に乏しいとか、哲学から入った人は位相空間論の演習問題すら解けないとか、そういう lightweight な内ゲバに近い御託を繰り返すわけである。(敢えてこういう言葉を使うが)哲学的に言ってナンセンスだ。

科学哲学、なかんずく哲学に〈正規の入り口〉だの〈正しいアプローチ〉だのがあるという思い込みは、つまるところ哲学に〈正規の哲学〉だの〈正しい哲学〉があるという発想に結びつく。それゆえ、その反動としてマスコミの大好物である「市井の隠れた哲人」といった、お笑いにもならない仙人郷みたいな幻想をシモーヌ・ヴェイヌやエリック・ホッファーを持ち出して世間にバラ撒いたり、"academic philosophy" だの "professional philosophy" などという恥ずかしいフレーズを平気で使ったりする、それこそステレオタイプ的というか、歴史に無知で無能なアメリカ人がたくさん出てくるのである。

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