Scribble at 2021-04-17 10:06:02 Last modified: 2021-04-18 01:53:20

寝ながら、ここで書いておくのが相応しいと思える議論を思い描いていたという記憶はあるのだが、さてはて何を論じていたのやら覚えていない。人によっては、忘れまじと意気込んで自ら目を覚まして手元に置いてある手帳に書き込んだりするようだが、深い眠りに入るまでなら僕も同じことをする習慣があるけれど、全ての機会を捉えて書き留められるわけではない。よって、何か書いておきたいと思ったのは確かなのだが、その内容は分からないという報告をしているにすぎない。

そういう、忘れてしまう事例とは違って、寝ながら少しずつ思い出しては次の議論へ進めているような、幾つかのアイデアは温めている。つまり、寝るたびに一部の時間を使って僕なりのテキストを書く準備をしている(それはそうと Google IME は「~している」つまり "shiteiru" とタイプして変換すると、最近は決まって「~シている」という奇妙な候補が優先されるのだが、これは何の影響なのか)。いつまでも凡庸もしくは愚劣な連中が続々と出版する紙屑を文字通り「紙屑」と指摘するだけでは、それこそ A=A を繰り返しているだけであり、僕自身においてすら何の知的な進展もなく無益である。

「小平の英雄による付け焼き刃の近代史や文法の本は無益」

「四国の元役人が続々と出版する哲学サバイバル本も無益」

「なんとか茶の通俗本は無益」

「ナルシストが書くお勉強本は無益」

「哲学用語や最新流行のブローカーが書くものは無益」

・・・などとやっていても、呼吸するたびに「これは空気、これも空気、ああ、いま吸い込んだのも空気だ」と数え上げているようなものだ。

無能な人間が書く本をアマゾンや書店で目にするたびに、新しくバラ撒かれている紙屑だと認めたり、他人に「これはクズだ」と教えずに済ませる、少なくとも僕自身にとって最も効果的な対策は、自分でそれらを完全に凌駕するようなテキストを書くことだろう。もちろん、このサイトも含めて現にそうであるように、そういうテキストを無償で公開したところで、期待するような読み手が目にするとは限らない(僕は万人を対象にしてものを書くなどという哲学的に不見識な態度はとらない。そんなことが言語学的にも経済的にも物理的にも論理的にも不可能であることくらい、学部を出た程度の知性があれば自分で考えて理解してからものを書くべきであろう)。それこそ悪貨は良貨を駆逐するものだし、大多数の凡人は凡庸であるがゆえにママがふーふーしてくれたご飯しか食べられないのも分かる。近代以降の「(知性という観点で言う)ガキ」とは、そういうものだからだ。皮肉にも、そういう状況から自力で抜け出たような人たち、つまり既に哲学するだけの能力を自分なりに発揮している人しか、哲学だろうと他の分野だろうとまともな業績やテキストへアプローチするための通路が見つけにくくなっている。

その責任が、きみたち無能な書き手のプロパーやライターにあるという自覚があるのか。世の中に何ほどかでも貢献しているかのような自意識で哲学の通俗書を続々とバラ撒いている、おまえたち自身の行いが、潜在的に〈哲学〉への意欲なり動機をもつ人々(何も自分の興味や動機が「哲学」と世間で呼ばれているものであると自覚している必要などない)に、的外れでデタラメな implication を植え付けているのだ。自分では「現象学的還元」という用語について穏健な説明を書いているだけのつもりかもしれないが、そういう説明をバラ撒いている、それこそ社会(心理)学的な効果について無自覚であるとしか思えない以上、少なくとも別の脈絡を伝えるような手段が必要だと思う。

ただし、それがマスメディアの大好物である「在野の知られざる思想家」的なテンプレに回収されてしまったり、あるいはドクター崩れがルサンチマンだけで書き殴っているようなものに落ち込んでしまうと、もちろん本来の目的を果たすどころか悲惨な自意識プレイを続けることになる。

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