Scribble at 2021-04-01 20:19:35 Last modified: 2021-04-01 20:25:57

或る古典を読むとして、その前後関係が分からない別の古典を読む際に、それが最初に読んだ古典よりも早く書かれたとか遅く書かれたということと何の関連があるのかと考えてみよう。もし早く書かれたものを遅く書かれたものよりも優れていると評価すると、それはものの考え方が進展する順番を取り違えていると言って笑われることになるのか、あるいは遅く書かれたものを早く書かれたものよりも未熟で劣っていると評価すれば、それは概念や思想の発展する順番を誤解していると非難されるのだろうか。

もしも哲学することにおいて、その考えが何か他の考えよりも早いとか遅いという点で優劣を決められるとするならば、我々は或るテーマについて誰かよりも遅く考えている可能性があるし、逆に他の或るテーマについては誰よりも早く考えている可能性もあろう。しかし、だからといって或るテーマについては酷く劣っていて、他の或るテーマについては酷く優れているなどと言うべきだろうか。そして、一人の人間がもつとされる学説なり主張なり思想なりについて、それを細かい論点に分割して得た個々のテーマについて、それぞれ誰かよりも遅いだの、誰よりも早いだのと言いつつ、そうした評価の総計として「哲学者ポイント何点」などと得点を与えて偏差値を割り出したりするのが望ましいだろうか。

これは確かに戯画と言ってよい話かもしれないが、しかし哲学プロパーから素人までの大多数が仮定したり暗黙のうちに許容している考え方のようにも思う。実際、「哲学」と表紙に書かれた本が出版されるたびに買い求めたり図書館で借りて、さも最新の本にこそ最善の知恵が書かれていると言わんばかりの人々もいるし、それを煽っている哲学プロパーも多い。現にその手の本を手掛ける本人でなくとも、いわゆる人間関係や業界の付き合いという事情で「ご恵投ツイート」などと呼ばれる実質的な宣伝行為に関わるプロパーも多いわけで、必ずしも一律に不純と言って責められるものではないにせよ、それなりに些細な罪であることも確かだろう。

こうした人々が口を揃える際の言い訳の典型は、「なにもしないよりはマシ」というものだが、果たして哲学者として本当にそう言えるのかどうかを真面目に考えているものなど、実は殆どいない。なぜなら、そのようなことは哲学として結論を出せるものではなく、社会科学として一定の水準の調査をしなければ事実としてわからないことだからだ。啓蒙の是非や評価について、なにもしていない段階で思弁を並べるだけなら好きにすればいいが、現実に啓蒙が有効であるかどうかを基準となる事実に照らして立論するのであれば、少なくとも社会調査論や統計学や社会学といった知見を一定の水準で学んでおくことなど、哲学者としてどころか社会人として当たり前の話であろう。結局、無能が無能であるのは、こういう是々非々として当たり前にやるべきことをやらずに、有名哲学者の伝記や評伝に描かれた社会常識を逸脱する発言や行動を猿真似して、それが哲学者としての言動だと錯覚する自意識プレイにしか自我の拠り所がないからなのである。無能には業績という拠り所がないので、それも当然だ。

もしも哲学して究めようとする思惟なるものが、それを展開したのが何年の何月何日であろうと、あるいは同じ人物がそれよりも10年前に展開したことであろうと、それとも同じ人物が30年後に展開することであろうと、それを自分自身で展開したり理解する上で自分自身を騙すような脈絡がない限り、内容それ自体において真であるならば、日付の刻印に意味はないと言いうる。もちろん、「普遍的」とか「絶対的」とか「必然的」と言いうるような、脈絡を度外視した評価に値するような思惟が可能であるかどうかも、哲学するにあたって吟味するべき仮説には違いない。しかし、少なくとも当人が生きて思索に専心しているあいだは大きな留保を付け加えることなく無条件に同じ脈絡で正しいと言いうるのであれば、それが10年前に考えられたり言われたのであれ、10年後に考えられたり言われたのであれ、それが刻印された日付だけで是非を計れるものではないと言える。よって、『国家』を読んで或るテーマについて何かを考えた人が、次は『純粋理性批判』を読んで(恐らくは)同じテーマについて何かを考えるとしても、常に後の時代に述べられた知見が優れているという哲学的な根拠などないし、『国家』の後に同じ人物の(しかも『国家』よりも早い時期の)著作とされる『メノン』を読んだとしても、同じことが言える筈である。

なるほど、一人の思想家がたどる人としての成長なり熟達といった型に準じて、思想の内容についても似たような発達なり進化なりという型を描いたり、あるいは後者ゆえに前者が生じるのだと発生論的な議論を述べることは、簡単であるというだけでなく、理想としても定めやすい。したがって、ハイデガーであれば、プラトンであれば、デリダであれば、クワインであれば、あるいはなんとか唯物論の誰それであればという、あたかも〈神の似姿〉を思い描くような調子で、そのような理想をそうあれかしと仮定し、古典を書いた著名な先人なら思想における〈発展段階〉を経ている筈だという仮説にコミットすることにも一理はあるのだろう。ただし、それが思い込みであることがわかれば、やはり厳しく否定しなくてはなるまい。残念ながら、その是非を見定めたり、研究者自らの思い込みを自覚して過去の評価を否定するところまで達しないあいだに、たいていの古典の祖述者は死んでしまう。それゆえ、その手の〈成長モデル〉に基づいた、或る種の善意の解釈ばかりが大量に残されているのが現実ではないだろうか。

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