Scribble at 2021-04-01 13:54:39 Last modified: 2021-04-03 07:47:16

ドゥルーズが自らのスタンスを「ポスト構造主義」と呼ばれることを嫌っていたように、僕も高校時代に小阪修平氏らの解説を読みながら、何か分かったような分からないような違和感を持っていた。簡単に言えば、「ポスト構造主義」などという表現は、まるでカントから後に生まれた哲学者たちの理屈を、ことごとく「ポストカント主義」と言ってるようなものだからだ。そして「ポスト構造主義」と呼ばれる人々の論説が言わんとするところの実態を覆い隠さんばかりに、「ポスト構造主義」についての解説も夥しい数のバリエーションとして、商業的な出版物どころか、いまではオンラインのブログ記事などでも多様に展開されている。というか、僕からすれば色々な人たちがデタラメにあちこちで喚いているだけにしか見えないが。

もちろん、"Plato's footnote" という言い方があるように、古代ギリシア以降に哲学する者は誰であれ「ポストプラトン主義」であると言えなくもないが、まさにそれはデリダが「自民族(というか、ヘレニズムに起源を置くアングロ=サクソン)中心主義」と呼んだ発想であろう。一見すると、「お年寄りを大切にしましょう」といった標語と殆ど変わらない〈無害〉で〈善良〉な、先人に真似ぶとか古典を尊ぶ態度のようだが、強力な偏見や差別の表明なり気取った(あるいは温厚な数々の〈文学表現〉に自己催眠をかけられて当人ですら無自覚な)言い回しでしかないとも言いうる。願わくは、内容においてこそプラトンと歩みを同じくしていると考えて〈哲学者〉を自称するていどの、或る意味では不遜な人間として言えば、そういう無自覚で迂闊で傲慢な偏見や差別こそ、われわれ哲学者が〈社会科学的センスとして遠ざける〉べきものというよりも、その性根において最初から効果を無効としているべき筈のものではないのか。

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