Scribble at 2021-03-29 23:50:14 Last modified: 2021-04-03 10:29:39

百歩譲って「ストーリーさえわかればいい」のだとしても、その飛ばした「10秒」の中に、ストーリー上重要な伏線になるカットが一瞬だけ挟まれていないと、なぜ観る前から断言できるのだろう。彼らはエスパーなのか。あるいは、「数秒後に何も起こらないことくらい、その直前の状況から簡単に予想できる」と踏んでいるのだろうか。

「映画を早送りで観る人たち」の出現が示す、恐ろしい未来

こういう記事を持ち出す意図は、既にお分かりの方も多いと思う。お察しのとおり、哲学においても「90分で分かるどーのこーの」、「100語で分かるあれやこれや」、「一冊で分かるなんたらかんたら」という、グレイトでビューティフルな一般書が続々と出版され続けていて、小川なにがしやなんとか茶や小平の英雄やお勉強君や、名前も忘れたが哲学用語の下らない本を日経BPなどから何度も出版してる、何の業績があるのかまるで分からないやつが書いた本などなど、まぁ呆れるほどのペースで書店に並ぶ。

神戸大学の博士課程に在籍していた科学哲学専攻の学生という経歴がどのていどのものかは知らないが、少なくともバカではないていどの人間として、こんなものを何千冊読もうと何の意味もないとは言える。というか、何かの意味について哲学的にまともなレベルで考えたり気づく役にすら立たないだろう。それこそ、僕が日頃から世界中のとりわけ若手について「情報処理」と侮蔑する、浅薄な情報量マウンティングや、あるいは最新流行の紹介人という立場の争奪戦をしている連中による〈まとめ記事〉でしかなく、そんな読み物は哲学(すること)と殆ど関係がないからだ。

上記の記事に現れる若者たちは、話題についていこうとするあまりに、多くの映画やドラマをひととおり眺めておく必要に駆られる。もちろん、それで映画やドラマから自分が何を受け取ったり感じるかなんて、別に何も期待しているわけではないし、何もなかったからといって残念だとも思わないのだろう。恐らく彼らは、そういうことが徒労であると思っているだろうし、そういうことが人間関係の維持には役立とうとも、自分が生きたり考えるための役に立つとは思っていないだろう。それでも、同じ話題を共有するという〈体裁〉を維持することにこそ、それらの消費財としての効用があるのだろう。

哲学史や哲学概論などと呼ばれる、ターレスから始まって、今をときめくなんとか実在論や圏論的なんとかに至る多数の名前と主張をカタログよろしく並べた本を眺めて、「万物は流転す」とか「語り得ぬものについては沈黙せねばならない」とか「テクストに外部はない」とか「事象そのものへ」とか「このコップだけで哲学ができる」とか「存在するとは変項の値であることだ」なんてカッコ良いお気に入りのフレーズを見つけたり、周囲の人が時計代わりに眺めていた規則正しい生活だの、小学生のガキを殴ったり全財産を詩人にくれてやるだの、Twitter に耽美系の醜悪なアイコンを使うだのという奇行に憧れてみたり。ともかくも、一冊の本という〈パッケージ〉で何かが得られるという、出版業界が色々な人達の伝記を始めとする著作で捏造した幻想にとらわれる人々の平々凡々さの有様は、凡庸であるがゆえに哲学者である僕らからすれば〈悲惨〉としか言いようがない。時間やお金や労力の浪費という、これこそ「完全」の名に相応しいゼロ加算の実例だからだ。

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