Scribble at 2021-03-13 11:29:08 Last modified: 2021-03-13 11:38:27

書くことで名を残す人物は確かに多いわけだが、もちろんそれは実質的に〈哲学する〉ことにとって必然的でも何でもない。ただ、我々はプラトンが自らの著作で取り上げたり言及してくれたからこそ、ソクラテスという人物がいて何らかの影響を当時の人々に与えたことを知りえる。仮に古代のギリシア人が誰一人としてソクラテスの登場する著作を全く残さなければ、ソクラテスという人物がいて、仮に当時のギリシア人たちに絶大な影響力を与えたとしても、その「事実」を後世の我々が推定することは不可能だろう。そして、僕が中学まで学んでいた考古学という分野も、原則としては〈長期に渡って残存しない何か〉があったという推定の元に生活環境や制度や文化を再構成しなくてはならない。

著作の無い哲学者の事績は、会話などで交流した人たちだけに影響が限定される。しかし、それがいったい何なのか。「シェア」は必然でもなければ正義でもないし、それを元々の動機として真善美を考えるなどは端的に言って倒錯であり、自意識プレイであり、要するに他人に良く思ってほしいがためのマーケティングにすぎない。もちろん他人が他人に大して不正な行いをするのは自分にとっても迷惑となりうるから、他人にも「善く」考えて生きてもらうのが好ましいけれど、人の考え方や生き方を考えたり適用する目的の第一義は、〈自分が〉どう考えたり生きるべきかを知り実行するためであろう。

したがって、そういう第一義だけに専心するなら、もちろんこんなサイトを運営する必要など誰にもありはしない。僕らが個人としてそれぞれ(できれば)善く考えて生きようとする限り、それを Twitter でメッセージとして連投したり、PHILSCI.INFO などとドメインを取得してサイトを制作する必要などないのである。しかし、それはそれとして第一義であることはわきまえるとしても、それ以外の人々にも何らかの動機づけや自覚を促す必要があると言わざるをえないのが、原則として凡人しかいないヒトの共同体というものである。なんとなれば、何についての〈善さ〉であるかも、それぞれの事情や脈絡や関心によって異なるため、それぞれが自分の思うところを公表して提示しない限り、〈善い〉とは言っても汎用的な思考など無理であるからして、不可避的に一定の与件に従って偏ってしまうからだ(その典型が、いわゆる privacy vs. security という対比だろう)。

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