Scribble at 2021-03-07 08:05:21 Last modified: 2021-03-10 00:34:49
日本の自然科学だけにとどまらず(人文・社会系は言わずもがなという理由もあるが)、学術研究は総じて予算としても業績としても人材としても危機的な状況にあると言われている。その原因は幾つもあるだろうし、多くの人々が Twitter などで口々に不平をバラ撒いているように、政府の助成金だの大学の法人化だのと制度的な問題が大きなウェイトを占めているのかもしれない。
しかし、このような状況は行政だけの責任に帰してよい筈はなく、もう一つの重大な原因は出版・報道という産業にあるというのが、当サイトで何度か述べてきたように僕の持論だ。もちろん、個々の出版社の経営方針なり編集者個人の見識なりにも問題はあろうが、岩波書店や文藝春秋が個々に廃業するていどで何が変わるわけでもないし、いわゆる「名編集者」なんてたいていは出版業界の自家発電的なマーケティングか、あるいは未熟な後輩たちによる誇大妄想だけで作り上げた虚像にすぎない。その人がいなければ、これこれの作品は埋もれたままであったろうという sine qua non は事実なのかもしれないが、しかし著作物や映像や演劇の使命や本質は、具体的にこれこれの人物が書いたり映したり演じる〈文字や姿〉にあるわけではなく、それらが表現しようとしている何かであろう。
それを取り違えて、いわば presentation が著作物の本質であると思い込むのは、僕に言わせれば未熟なデザイナーが簡単に陥る通過儀礼的と言ってもいいような倒錯でしかない。しかし、それを業界全体で敢えてマーケティングに採用したのが、日本の報道・出版なのである。教科書に対する学術としての正当な評価や真摯で厳しい取り組みを軽んじては、コミュニケーション論や国語学や教育学やレトリックの初歩も勉強していない、プロパーというだけの未熟者が手慰みに書いた、メモ帳同然の薄っぺらい本を毎年のように「テキスト」と称して繰り返して出版する愚行などは、その典型だ。また、海外では当たり前のように売れないからこそ殆ど新刊のタイトルとしてお目にかかれないわけだが、"What is Philosophy?" とか "Philosophy, by the Easiest Way" なんて言っているも同然のタイトルの本を、殆ど毎月のように出版しているのも、日本だけだと言っていい。
簡単に言えば、「哲学とは何か」なんて本を出版したり、プロパーが個人としてウェブサイトに掲載する必要などまったくないのだ。僕が思うには、〈哲学〉をやろうとしているのと実質的に同じ動機や事情をもつ人々が求めているのは、なんとか茶とか四国の役人や専門用語の紹介専門家が書くような、プラトンはどう言ったという調子の本などではなく、彼らが知り、考えたいと思っているテーマについて論じた本である。プロパーの責務は、自らの関心や使命や必要に応じて、哲学と呼ばれる学問なり関心に携わり、公的な助成を受けたり大学で教えていて、特定の研究コミュニティに参加できたり、出版社から何程かの出版物を出してもらえる地位を活用して〈業績を上げる〉ことにほかならない。大学で学生を教えるのも、結局はこれが基礎にあってこそ、付いてこようとする人間に具体的なアドバイスができるし、しなくてはいけないのが教員の役割というものであろう。教室で大勢を相手に「哲学入門」などと称して、デカルトは何年に生まれたのどうのと喋るだけなら、それこそ僕が明日からでも代わりに大学教授になれる。もちろん、それは僕が神戸大学の博士課程を中退したていどの学識があるからではなく、そんなことは学部生でも有能な人間ならできることなのだ(実際、塾の講師や家庭教師として彼らがやっているのは、実務としては殆ど同じレベルのことである)。
とにかく、この国で学術に携わっているプロパーやアマチュアの類がやっているのは、ひたすら古典の紹介とか専門用語の紹介とかテクニカルな議論の紹介であって、〈そこからお前には何が言えるのか〉ということは殆ど出てこない。そして、多くの人々がこぞってフォローしている人間とかブログ記事というのは、その大多数が書評とか学説の要約を紹介する類であり、その典型が「編集工学」などという疑似学問・疑似思想(英語で簡潔に言えば "wannabe" となる)を、これまた同じく出版業界のマーケティングとして「知の巨人」だのなんのとプロモートして売り捌く陋習であろう。かようにして、何度も同じことを presenation だけ挿げ替えて販売しなおすという手法が繰り返され、小手先の情報や〈まとめ記事〉のようなもので手軽に学者ぶった発言をしたいという、クズのような動機で本を買ったりブログ記事を RT しているような人物ばかり増えていく。こんな国で学術研究が衰退しないわけがない。
幾つかの人物の発言とか出版やブログ記事の事例を見ている限りで言えば、おおよそインドと同等か劣るていど、中国や韓国や台湾よりも遥かにていどの低い現状だと思う。とにかく、日本は〈総評論家〉であり、みんなでみんなの記事を RT し合っている、それこそ学問については蛇が自分の尻尾を食ってるような状態だと思う。ことに哲学と呼ばれている分野の話題について言うと、寧ろ通常は違うと思われている分野とか脈絡でものを考えたり実績を上げている人々にこそ学ぶべきことが多く、日本のプロパーはこぞって「なんとか分析哲学」だの「なんとかの現象学」だのという、大学のサークル勧誘で使うパンフレットみたいなものを作るのに忙しく、特にここ数年の「分析系」は海外でも回顧録的な話題の著作が続々と増えていて、いかにも思想史的な袋小路に突き当たっているという気がする。
科学哲学については? うーん。袋小路以前に、〈往来に立ち止まって小銭を勘定してる〉姿しか見えないね。それもそれで学術研究の立派な業績だし、制度的な必要性とかコミュニティの維持という点では意義のあることだと思うけれど、かつてサルトルやアロンの名で語られたような、目の前のグラスだけで哲学できるという姿とは違って(その逸話も、結局は "garbage in, garbage out" の一例でしかないと思うが)、そこには何か、〈思考〉はともかくとして、〈思想〉が欠落しているような気はする。