Scribble at 2021-03-05 09:49:25 Last modified: 2021-03-05 09:50:47
僕は、挿絵や図表あるいはイラストを哲学だけに限らずコミュニケーション全般に使うということを、もう少し真面目に考えてはどうかと言っている。単に国内で通俗本をばら撒いている人々を底上げすればいいというわけではなく、これは visualization といった小手先の話ではない。一つ簡単な実例を紹介しよう。もちろん、このような図表で〈図表を不適切に使う誤り〉を議論するからといって、僕の議論が〈図表を不適切に使う誤り〉から逃れられるわけではないのであり、ここでの議論も当然だが批判の対象としてよい。
昨今はゲームでも勉強でも仕事でも、情報を動画で得ようとする子供が増えているらしい。実際、タブレットやスマートフォンで眺めているのは、LINE やゲームの画面か YouTube であることが多く、実のところ「デジタル・ネイティブ」と呼ばれる近年の若者や幼児はデジタル機器の用途が非常に狭く画一的で、それこそ巨大資本の〈サービス部品〉として好ましい消費者行動しかできていないように見える。それらのチャンスが一見すると夥しい種類のゲームであり、オンライン・サービスであり、商品であるがゆえに、何か凄く多様性のある世界に住んでいるかのような錯覚を覚えて埋没するのかもしれないが、実際には子どもたちがタブレットで「情報」とか「知識」を得たり求める姿は、その教育メソッドの貧困さもあってか、まるで昆虫のような振る舞いになっている。
したがって、たとえば動画や図表で「対称性」と呼ばれる概念を掴んだり理解するときに、上記のような〈わかりやすい〉イラストで visualized された特定の図像しか与えられないなら、彼らの多くはこの図で理解する〈線対称〉としてしか対称性を理解しないこととなり、つまりは概念としての理解が最初からイラストによって不当かつ無意識に狭められたり偏ってしまう恐れがある。これを「対称性」という概念で口頭なり文字として伝えるだけでよい習慣を維持すれば、それが線対称に限定される必要はないという点で、一方では曖昧さが残るにしても、それは何に関しての対称性であるかという点でオープンな表現なのだから、必ずしも欠点とは言えないわけである。寧ろ、発信者が点対称でもありうるような対称性を議論しているつもりでいながら、上のような図を示してしまうことによって議論のドメインを狭めてしまう影響の方が欠点だと言えるだろう。