Scribble at 2021-02-28 10:49:53 Last modified: 2021-02-28 10:51:41
コミュニケーションに内在する宿命的なパラドクスを解きほぐし、「教えること」の意味を根底から問い直す。
上記の著作については、内容も知らないし、以下では殆ど無関係かもしれない話を書く。
東北大の黒木氏のような哲学嫌い(と、もはや言わせていただくのだが、別にそれが〈いけない〉とは言ってない。僕も彼が言う意味での「哲学」の大部分はクズだと思ってるからだ)にとっては、この手のウィトゲンシュタインを持ち出して神秘だの困難だのパラドクスだのと言い立てる議論というものは、かなりの見込みで胡散臭いものという印象になるのだろう。もちろん、否定はしない。実際、僕らから見てもウィトゲンシュタインという名前を持ち出す著作物のおおよそ 95% は、そもそもウィトゲンシュタインの著作なり言動を知る必要も動機もなさそうな人物による、name dropping な哲学エッセイにすぎないからだ。特に、彼のスタンスを禅だの何のと仏教、つまり宗教でも哲学でも思想でもない何かだと自称する知的営為と結びつける発想は、たぶん間違ってはいないと思うのだが、僕からすれば〈間違っていなささ〉のレベルが低すぎて話にならない。単なる哲学の否定とか哲学への疑問とか哲学という制度的かつ伝統的な何かからの逃避に終わってしまっているのが、しょせんはオタク的な語学秀才でしかない哲学教員の限界だろうと思う。